僕は生まれて2~3才に満たないんだろうな。今まで生きてきた自分は、自分を生きていなかったから。

やっと、縛られていたものから開放されて産声を上げたのが、つい最近のことだとすると、やはり、それぐらいしか生きていないのだろう。


普通に生まれて、普通に育って、しかし、普通より早く気がついて、それに対する答えを出すことを先延ばしにしていた自分が、生きる理由をでっち上げるには、「人のため」に生きるのが手頃だったのだろう。


親のために進学、就職し、同僚のために仕事に励み、仕事のために休日を過ごし、時間の多くを言い訳に浪費してきた。


多分、自分と向き合って、自分のために時間を遣うことが怖かったのだろう。その時間に意味を持たせることができるか不安だったのだろう。


だけど、食べる、寝るといった衝動は、体を脈打つこの鼓動は、誰のためでもない自分のためだけのものだった。


足元を見ると、僕を縛る鎖は存在せず、ただ、自分の可能性を恐れていた自分が、僕の足にしがみついて離れなかっただけだった。


一度リセットして、自分だけの駄作を作る時間も、贋作を作るよりはよっぽどいい。

もしも、規則正しく、何かよくわからないけど苦い食べ物を食べ続けることで、100歳まで生きれるとしたら?

同時に、今のまま、野放図に生きて、60~70歳くらいまでしか生きられないとしたら?


どちらを選んでも、正解だし、ある意味では失敗になるのか。

人間って、いつから長生きしたいって考え出すのかな?運よく、過不足なく授かった人間には、頭の端にも引っかからないことかもしれない。


じゃあ、病気になれば、そう思い始めるのかな?軽い病気、重い病気、もう治らない病気。

それとも、運よく、病気が治った人が思い始めることなのかな?


歳をとったと感じ始めた人が思うことなのかな?

それとも、その歳まで何も成さずに月日を重ねたことに気づいた人が思うことなのかな?


時間は平等なもののように思えるけれど、その濃さによって、重さによって、密度を作ってしまう。


言われたことを言われたままにやり遂げて過ごした100年間には、多分、物足りなさを感じるだろう。

馬鹿なことをせず、懸命に生きた100年間には、疲労感を感じるだろう。


しかし、100年も生きることができれば、多くの新しいものを見ることができる。


「人生は、壮大な暇つぶしだ!」と厭世観を飾りにつぶやく人の目にも、ふと余所見をすれば、何か新しく、楽しげなものが見えてくるかもしれない。


何気なく生きている時間も、出会いのための待ち時間なのかもしれない。

生老病死という言葉をはじめて聞いたとき、その中の「生」から生ずる苦しみをいまいち理解できなかった。

生まれた直後の記憶はないし、運よく悪いところはなかったと聞くし。

それは勘違いで、生きることを理解しないで、ただ生かされていたから分からなかったのだろう。

幼い自分は無知で何よりも幸せだったのだろう。自分が何者かも認識できないほど、自分の意識がはっきりとしないほど幸せだったのだろう。

教科書通りだと、生まれ生きることで他の苦しみを知らなければならなく、生きていることは苦しみの始まりらしい。

それは理解できる。他の幸せと相殺できないほど辛いことがあるかもしれない。

しかし、本当の苦しみは生を知ることだろう。生きるということは、自分を存在として認識すること。
常に失うこととその後を想像しなくてはならないこと。

まるで、RPGでセーブデータが消えるかのような喪失感の何倍もの苦しみを想像しなければならない。

ゲームはたくさんあるけれど唯一無二の自分を無くすのはどれほどのことなのか?

この先も、これまでと同じように気づかぬ振りをして笑って暮らそうと思っている。
解けない問題は棚上げする他ない。



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