ある物語より
人の叡智は地を焼き、森を腐らせ、水を酸に変えた。
その世界に残った人類は、世界に満ちた毒と共に生き、やがて毒に患って死ぬ。
彼らの中の一人が毒の底に浄化された世界を発見するが、澄み渡った清潔な空気は彼の肺を灼き、透き通った純水は彼の体を溶かした。
彼は気づいた。
自分たちはすでに毒に順応しており、自分たちが夢見た純粋な世界では一日たりとも生きていけないのだと。

それは、いつから始まったことなのだろうか。

世界を焼いた日からなのか。
毒が世界を覆った日からなのか。
人が文明を持ち始めた日からなのか。

僕らは臆病で弱い生き物だ。だからこうして他の種族よりも長く生きようと必死になれる。
完全な闇の中では寝ることは出来ず。
全くの静謐の中では正気を保てない。

現に世界は止むことのない騒音と消えることのない光で溢れている。

僕らは毒に汚染されたのだろうか?
チャンスが欲しい。もしあの時こうだったら現状は大きく好転していたかもしれない。

後悔する時はいつも良い想定と比較してしまう。
あの時、チャンスに恵まれていたら…と

多分、大小様々なチャンスが存在し、それは瞬間的に入れ替わり、その時々の判断によってものに出来るものだと思った。

飲んだペットボトルを持って歩くけれど、経路上から少し離れてゴミ箱があるが、面倒がって、気づいたら家まで持って帰ったり。

駅の改札からプラットホームの間、便意をもよおしても、電車を優先し、目的地より前の駅で降りてトイレに行ったり。

ゴミ箱とトイレをチャンスと例えるなんて可笑しいことかもしれないけれど、

一見面倒で遠回りするかのように思われるものを無視して、無償のチャンスのみを渇望していないかな?
何故、此処でこんなことをしていなければならないのか?

何故、今自分はそこにいないのか?

今そこにいるために今迄の時間を過ごしてきたのに。

自分の命を遣って数人の見ず知らずの人を救うはずだったのに。

一度きりの絶望と、幾度にもわたる厭きれが自分の核を変容させたのだろうか。

今自分はそこにいて小さいながらも誰がために何かしているべきだとすると、
此処にただ存在する自分は何者か?

自分が蔑視してきた存在に、厭きれて投げ捨てた理想に、いままさに自分を否定されている。


今自分に出来ることは、