【人を育てるには】
世間では大人の言いなりになる子や、大人の考えの枠から飛躍しようとしない子が「いい子」であり、
自分の意思を堂々と主張したり、
個性的な考え方や行動をする子を「悪い子」というレッテルをはりがちである。
けれども私は逆だ。世間でいう「悪い子」に期待している。
なぜならそういう子どもこそ個性にあふれ、可能性に満ちた本当の意味の「いい子」だからである。
< 本田宗一郎/実業家>
■ひとこと
草木がスクスクと育つには、適切な養分と水と温かく降り注ぐ太陽の力が必要。
子供がスクスクと育つには、やはり適切な栄養と適度な運動と、
そしてその子の持って生まれた才能を見つめて、伸ばしてあげようという愛情が必要なんじゃないか。
いや、子供だけではない。
大人にだって、同じことが当てはまる。
その人物の持っている才能(強み)を見つめて、伸ばしてあげようという愛情が人材育成の視点からも大事なことではないだろうか。
ところで、愛情とは辞書を引くと
『深く愛し、いつくしむ心』とある。
なんとも美しい言葉である。
でも、清くもなく美しくもない私の心は、誰に対しても平等に愛情を注ぐことなんかできっこない。
もっとハッキリ言えば、あの人は好きだけど、この人はキライ。
あの人には愛情を注げるけれど、この人には無理。
これが偉大ならざる“普通の人間”の本当の姿。
となると、
人を育てるべき立場の人間は、誰に対しても平等に愛情を注ぐことができる清く美しい心を持っていなければならない、ということになる。
しかし、そんな聖人が人を育てる立場の数だけ揃っているのだろうか…?
この疑問に答えてくれる素敵な言葉が見つかった。
『自分が人にたいしてどう感じるかはコントロールできませんが、人にたいしてどのように振舞うかは、きちんとコントロールできます。
隣人は気難しい人で、好きになれないかもしれませんが、それでも親切に接することはできる。相手が感じの悪い態度であっても、自分のほうは忍耐強く、正直に、ていねいに接することができるのです。』
つまり、愛とは感情の愛ではなく、行為としての愛ということ。
好きか嫌いか。これは感情レベルのことなので制御できない。キライなものはキライでいい。
でも、キライな人にも行為として手を差し伸べることはできる。
優しい言葉をかけることはできる。
感情ではなく行動・行為で愛を示す。
これなら、なんとか努力次第でできそうである。