30年来の友達が自殺した。


ふつうの人だった。

 

仕事をして家族の介護をして家事をして本を読んだりお笑いを見たり、ほんとうにふつうの人だった。


奥田民生もみうらじゅんも彼女から教えられた。ダウンタウンが好きで映画もよく見ていた。ビーズ手芸をしたり家族と旅行したり、内向的なところもあるけれど、大型の免許を取ったり、パジェロミニを運転していたり(うちの父がパジェロなのですぐ庭に出てチェックしたのがいま思い出しても笑える)、


いろんな面を持つけれど総じて真面目で内向的で優しい責任感の強いひとだったと思う。30年くらい前に仕事の同僚として知り合った。

 



ある日ネットの掲示板に個人情報が公開されて、そこから彼女の静かで落ち着いた暮らしも、優しい心も、飛蝗の大群に襲われた畑のように喰い荒らされてしまった。

 


 

亡くなったのは半年近く前だったけれど、彼女とかかわりを持つすべてのひとのアドレスがわからないように、住所録や手紙や年賀状などすべてを処分して彼女は死を択んだので、ご家族から彼女の死を報せるべき相手への連絡はできなかった。

 

私がだらしなく彼女の誕生日プレゼントをだいぶ遅くなってから送ったところ、彼女のお母さんから電話があった。てっきり、仕事でなかなか連絡できないからお母さんが電話してくれたのかなと思った。考えたらこのコロナ禍で出張なんかそんなにあるわけないのに。

 

なかなか連絡できなくて、と彼女のお母さんがいう。私は彼女が忙しすぎて連絡できないかわりに電話しているということなのかなと受け取っていた。

 

2月に死にました。

 

という言葉が耳に入った瞬間からいまに至るまで、まだとても受け入れられていない。


いま何度目かの編集をしているのだけれど、読み返していても苦しい。

 

彼女がネットの誹謗中傷にずっと苦しんでいたこと、なんど番号を変えてもすぐに嫌がらせ電話がかかってきて、実家の電話にさえ無言電話がかかってくるようになったこと。


苦しんでみていられないほどだったとお母様は絞り出すように仰った。


彼女は2月に死を択んだと。



1年ほど前、彼女からの手紙にネットに個人情報が出て、信じてもらえないかもしれないけどメールアドレスを何度変えてもダメなので携帯はやめましたとあって、そこからずっと音信は途絶えたままだった。


夏にはがきを出したけれど、読んでもらえたのだろうか。彼女は電話に出ると声がうまく出ない症状に悩んでいたので、電話はもう何年もかけていなかったしLINEもメールも携帯を捨てたというならできなかった。


返事が来なくても手紙を書きつづけていたら…?


でも真面目な彼女は返事が書けないことにも悩みそうな気がしてできなかった。そのうち落ち着いたら会って…と思っていた自分がぬるくて許せない。



 

いまこれを書きながら、これを書くことも彼女を苦しめることになるのかと思っている。お母様から電話をいただいた日からふとした瞬間に彼女のことを思い出すと指が震え、マスクの下で唇がチック症状のように痙攣した。マスクをかけていられてよかった。お客様とにこやかにお話をしながら、マスクの下で私の唇はねじれていたのだった。


(ひどいチック症状は現在治りました)



 この記事を公開するのもどうしようかと思ったんだけど、もしいま何かで苦しんでいる人がいたら、少しは助けになるかもしれないと思って。


私はいま左手の痺れとたまに動悸が激しくなるくらいで、だいぶ安定しています。


生きていればこんなふうによくなることもあるけど、彼女は苦しんだまま他界したんだなって思うと自分が生きている申し訳なさを思ってしまう。


末井昭さん(私は西原理恵子さんの『まあじゃんほうろうき』で末井さんを知った)の『自殺 末井昭』について、過去のブログに感想文がありました。


いまも彼女について思うのはそのこと。


優しくて真面目なあなたにこそ、この生きづらい世の中で生きていて、同じく生きづらい人が支えになるような存在でいて欲しかったなって。




自殺 末井昭