きのうは岩手県立美術館の「アールブリュット・ジャポネ」展に行ってきました。
映画でも美術展でも、予備知識はあまり仕入れないで出かけるので、
(思想があるわけではなく、行き当たりばったりなだけで褒められた話ではないない)
作品を目の当たりにして衝撃を受けました。
その衝撃はたとえば、
上村松園の「序の舞」が予想外にでかかったとか、
フェルメールの絵が覚悟していたよりさらに小さかったとか、
そのての衝撃とも違う。
息子だ!
と激しく思ったんです。
絵画からペーパークラフト的なものや、衣類、家や城に至るまで、
作家と共に既存の美意識を飛び越える解放感を味わいました。
絵の解説を読んで、「障害」や「発病」「作業所」などという言葉が多く見られ、
あ、障がい者の作品のことをアールブリュットというのかな?
と思いかけたのですが、
アールブリュットの説明には「生(き)の芸術」とあり、ビュッフェが作ったことばのようです。
たしかにどの作品からも伝わってくるのは確かな生の力でした。
きのう、たまたまですが、障がい者の通所施設設立への募金をしてきて、
(息子が支援学級の入っているので、「手をつなぐ育成会」岩手支部会員ですし、息子がずっと見てもらっているところも障がいのある子どもと青年の寮育センターですから、
通所センター設立には関心をもたざるを得ないです。
で、募金のあと、そういえば盛岡では公共の施設に障がい者による喫茶店や食堂をおくことが多いなあと気づきました)
なにかつながりを感じましたね。
ギリギリ40分で見たので、図録もポストカードもないのですが、
紙とセロファンテープだけで作られたロボットっぽいシルエットのクラフトはほんとうに息子っぽかった。
絵本や挿絵でなじみぶかい田島征三(たしませいぞう)さんのコナラのハカマやモクレンの実をつかった作品もありましたが、
障がいのあるなしにかかわらず、ともにアールブリュットの作家であるという意識が伝わり、
これは障がい者の芸術ではなく、
こういう表現方法を選んだ作家がアールブリュットの作家なのだ、
と気づかされました。
見る人がみな、私のようにみるとは思わないけれど、
障がい者は心がきれいだから見るものの心を打つ、
というような偏った視点では理解できないグロテスクで濃厚なものが流れこんでくる、そういう作品群もあるということは書いておきたいと思います。
それにしても、
「大掃除のたびに大量の作品をゴミとして捨てられていたが、近所に住む画家によって作品が認められ」
というような作家もいて、
息子が自分では作品だと思っているらしいものを、ガンガン捨てまくっている自分には耳に痛かった。
しかし、いまの息子の作ったものがあの場に並んでいたら、
やっぱりアールブリュットではない気がする。障がい者だからこその才能というものではないのだと思う。
とはいえ、息子が見たら絶対自分もこれを作りたかったんだ、と、思いそうな斬新な発想のオブジェなどもあり、
次回はぜひ息子と一緒に行こうと思います。
案外、おもしろくない、と言われるかもしれないけどね(相手の顔色を窺わない発言が息子の障がい、というより性格です)。
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