きのうは息子が具合を悪くして、
それでも学校からの帰りにミスタードーナツに寄ろう、
と熱心に言うくらい元気だったのですが、
ドーナツを選んだあと急に元気がなくなり、
結局ずーっと寝ていましたね。
夕方やっと食欲が出て、キウイ2個、バナナ2本、オレンジ1個、おにぎり2個をたべて、
でも7時にはまた寝てしまったし、いまもすうすう寝てます。
インフルエンザに比べたら楽なんですが、
前日はあんな元気だったのに、やっぱり疲れさせてしまったのかとか、
学校の事務の人にもそんなことを言われて落ち込んでしまいました。
言う方は悪気じゃないんですよね。
学校で吐いたので、家でも様子をみてほしいというだけのことなんですが、
そこに「きのうは遊びに行って疲れたんじゃないですか」
と加えられると、すべてを否定されたように感じて虚しくなりました。
いろいろな面で息子に成長を感じて嬉しかったとか、一緒に展示をみたこととか、車からみた景色や街や雲など、
そういう思い出が一瞬で色褪せて、身勝手な母親と、ふりまわされて体調を崩した子ども、
なんですね、私たちは、
と。
で、きのうはスッカリ意気消沈してしまい、
息子が寝ている間、大した活動も出来なかったのですが、
朝風呂に入って洗濯機を回して、
新しいコーヒーの封を切って、
コーヒーを淹れて呑んで、
ひとの言葉になんか負けてたまるか!
と決意を新たにしました。
言いたい人には言わせておこう。
いいひとの皮を被って人をバッサリ斬りつけてくる人って、どこにでもいるんですよね。
考えすぎですか。
でも、相手の表情とかその場の雰囲気で分かることってあるじゃないですか。
私は、ああ、否定されちゃった、と虚しくなったし、それは正しいとか正しくないとかじゃない。
心を損なわれたということで、そこをもとのように回復する時間が必要だったという話ですよ。
きょうは具合がよくなり、5:00に起きてバナナをたべて、
お絵かきをしたりしていたので、宿題をやらせました。
絵日記がたまってしまっていて。
24日の日記には、
「きょう、おかあさんが野菜ソムリエのしけんをうけました。
落ちました」
と書いて、テストをしていてもらっている人々の中でしょげている私の絵を

息子はそれが発達障害だと分かっていても、ムカつくことを平気でやってくれるんだなあ。
でも、私が気分を害したのがなぜか全然わからないみたい。本当のことを書きましたが何か?
おもしろい絵でしょ?みたいな。
障害のためと分かっていても、うーん、なんとかならんのかと思ってしまいます。
ある野球界の名選手が自分のチームの試合について、
これは負ける、なぜならこうでこうだから、と、滔々と味方のコーチに話し続け、
実際すべてその通りに試合は進んだのですが、
なぜ自分のチームについて負けるとか平気で言えるのか…ってたぶん息子と共通する発達障害があったのだと思うのですが、
作者は発達障害についてあまり知らない人だったらしく、というより、その小説が発表された当時はまだ発達障害はいまよりもっと知られていなかったんだと思います。
その傍若無人ぶりにエゴイストと名づけていましたね。
それは有名な選手の影の部分を描いた小説だったのですが、
時々思い出して、息子が周りからはどう見られているのか、ということにしょんぼりします。
次の日の絵日記には、伊達政宗の写し絵をして楽しかったことを書いていて、
写し絵は大切にとっておきたいから、コピーをとって、
と。
(プリンタが復活してほんとによかったなあ)
楽しかったんだ、記念に残しておきたいんだ、
と思ったら、
無駄じゃなかった、一緒に出かけて良かったんだ、
と思えました。
日々アップダウン。降ったり照ったりですが、
一枚ずつページを重ねていっているんだと思いたい。
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