葉っぱビジネスについてはテレビでも見たことがあるし、
野菜ソムリエの講義でもおばあちゃんたがケータイでやり取りしながら
葉っぱを採取している、という話を聞いたりして、
すごいな、葉っぱに目をつけたひと、と思っていました。
このタイトルも思い切りがいいですよね。
作者はお父さんの敷いたレールに乗って、農業高校、農業大学校を経て、
農業改良普及員として県庁で働く公務員になる予定でした。
が、どうしたものか、その年に限って農業改良普及員の募集はなし!翌年は5名も
あったというのに。
あてが外れた横石さんを救ったのは、まさに過疎の町徳島県勝浦郡上勝町の営農指導員という仕事でした。
本人自らがいうように20歳の横石さんはちょっとちょっと、と思うほどのバタ臭いハンサム顔。
しかしそれがいまではこんな顔になって、と本人も書くが周りにも言われるそうです。こんなことを堂々と書いちゃうところに横石さんのユーモアがうかがえます。
最初はあきらめムードの漂う農家の人に意見して猛反発を食らってばかりでしたが、ある事件をきっかけに
横石さんは農家をリードしていきます。
就職して3年目、ミカン農家がほとんどだった村を冷害が襲い、収穫はおろか、育ててきたミカンの木さえ全滅というすさまじい事態に…。0からのやり直しどころか、これはマイナスからの出発になります。
横石さんはすぐさま「切り干しイモ」を後作にすすめ、売り上げは前年の3倍に伸びます。そして「分葱」。
それまで米やミカンといった、収穫までに時間がかかる作物ばかりだった村に、短期間で収穫ができ効率のいい作物が次々に入ってきたわけです。この冷害のあとの横石さんのがんばりが農家のひととの信頼関係を築いていったんだと思います。
やがて、1986年10月。出張がえりに大阪のがんこ寿司に入った横石さんは、あしらいの紅葉に感激してハンカチに包んで持ち帰ろうとする女の子をみて、ハッとします。
葉っぱはビジネスになる!
紅葉なんか村にはいくらでもあるじゃないか。
そう、私も葉っぱビジネスをテレビで見たときは素朴にそう思ったものです。
葉っぱなんかその辺にいっくらだってあるじゃーって(笑)。
しかし最初は農家の人たちも半信半疑だし、ルート開拓もままなりません。
横石さんは自腹で料亭に通い続けます。ひとりで入って、ひとりで料理を頼み、
ひたすら「つま」についてメモをとる味気ない食事を。
二十歳のころの美青年がたちまち痛風寸前の肥満体にふくれあがります。
それでもついに料亭のひとが心を動かし、板場をのぞいていきますか、と声をかけられるように。
その後もさまざまな苦労があるのですが、
見違えるくらい変わったおばあちゃんたちの姿に目をみはります。
海外からの賓客情報にもアンテナを張り、村への視察が回数を重ねるにつれて、
積極的に発言するようになり、パソコンで日々の売り上げ情報に目を光らせる。
それまで自分のお金を持たなかった農家のおばあちゃんたちが年収1000万円となって、
自分のお金の運用も考え、海外旅行もするようになったのです。
こうなるまでの横石さんの苦労は並大抵ではなかったと思いますが、
読み終わった後に残るのは、清々しい気持ちです。