大食い王決定戦。
予選を突破した8名の選手は、大会前日、健康診断を受けることになっている。
今回の健康診断会場は、恵比寿。
はじめての駅である。駅についた時点では、
集合時間まで1時間半もあったんですが。
小雨が降る恵比寿の駅から、徒歩で2分くらいなのに。
駅ビルをぶらぶら。そのあと思いっきり逆方向を彷徨い、
軌道修正したものの、淳クリニックの近くまできたら、
まだ15分あるな、ということで。
これが菅原の弱点なんだ。時間が余ったな、と思うと、
無駄な動きをして、ギリギリに駆け込むという。
雨も降っていることだし、と、近くのスーパーに入って、
念入りに折り畳み傘を選ぶ菅原であった。
だって、どうやったって勝ち残れそうもない面々じゃないですか。
せめて記念品に傘くらいは買っておこうかなと。
探していた、日傘兼用タイプの、しかも好みにあう薄い紫色の
レースっぽい生地のものが手に入って、
なんとなくもう一仕事終えた気がした菅原だった。
って、それは逃避……まあ、午前中の試合に勝って、
あの人に会える、という時点で目的は果たしたようなもんですから。
「菅原さん、こっちこっち」
と、手を振るのは、小口さんだった。
「他の方は、もう見えました?」
と、聞くと
「あと菅原さんで最後です」
というので、もう大慌てである。
エレベーターから降りると、
すぐ淳クリニックの待合室が見える。
待合室の細長い椅子に、ぎゅうぎゅう詰めに座っている、
男性4人と、女性2人。
あの人もいる。
「あれ?菅原さん、なんで?」
泉拓人さんが、丸い目をぱちくりさせている。
「今日、仲山さんと最終代表決定戦、やってきて」
「いやー、菅原さん、元気でしたかあ」
子どもみたいな笑顔で、話しかけてきたのは、
正司優子さん、だった。
菅原は、彼女に逢うために戦ってきたのだった。じつは。
「あたしは、これが菅原さんの実力だとは、思わない」
春の女王戦、二回戦のお汁粉で惨敗した後、
正司さんが菅原に植え付けた言葉は、大きかった。
「ジャックと豆の木」の豆みたいに、グングン伸びて、気がついたら、
豆の木を登って、雲の上に辿りついた菅原なのだった。
雲の上には、菅原がとうてい、歯が立たない相手ばかりが鎮座していたが。
三宅さんが正司さんとハワイの決戦前夜、長く話したと聞いた時、
「いいなあ。あたしも話したかったよー」
と、思わず口走った菅原だったが、
それなら、正司さんの電話番号もメールアドレスも知っている、
三宅さんを通して、連絡をとればいいじゃないか、と思われそうだが。
なぜか、それはすべきではない、という思いが強く。
(秋の男女混合戦で、彼女に会おう。それまでは連絡しない。
もちろん。予選敗退したら、彼女と連絡することはもう、ない)
「あたしは、これが菅原さんの実力だとは、思わない」
冷静で聡い、情より理に勝っている、と、菅原は勝手に思い込んでいた
正司優子が、眼を赤くして、その一言だけを言ったのだった。
菅原はその言葉を、
もう一度上がってこい、という意味だと受け取った。
あたしは、あんたが来るのを待っている、と。
でもまあ、一方で、みんな汁粉で血糖値上がりまくりで、
感情コントロールが効かなくなってんな、と、平熱で思う菅原も、
当然だがいるのだった。
それでも、正司さんの一言は重かった。言った本人は、案外忘れているだろう。
菅原はずっとそう思っていた。忘れていても、構わないと思った。
ただ、あたしは言われたことを、忘れなかったよ、と。
それを言うだけのために、サーキットに戻ってくる、
そんな馬鹿がいてもいいじゃん。
子どものような笑顔で、屈託なく笑う正司優子は、春の女王戦の頃より、
いくぶん、ふっくらとし、以前の真っ黒なひっつめ髪を、
明るい茶色のショートヘアに変えていた。
「見て見て、あたし、すぐ負けてもいいけえ、紙袋で来たんよ」
正司さんは、海外旅行用のスーツケースの代わりに、大きめの紙バッグのみの、
軽装というより、
「舐めてるだろ、それ」
と、泉さんに突っこまれも、それが嬉しそうで、
淳クリニックの待合室は、
女王戦の健康診断の会場に一歩足を踏み入れた時の、あの、凍ったような
雰囲気とはまったく違っていた。
初対面のジャイアント白田こと、白田さんはサングラスをかけていたが、
「すみません、写真撮っていいですか」
と、菅原が頼むと、気さくに応じてくれて、サングラスを外した。
その時、菅原は、
(ああ、この人は信頼できる人だ)
と、シンプルに思った。
サングラスを外したというだけのことで。
でも、この時の直観は外れていなかったので。
そこにいたのは、
男性4人。白田さん、山本さん、泉さん、新人枠の斧田さん。
女性2人。正司さん、地方予選優勝の高橋さん。
さらっと書いたが、ヒミツの実桜ちゃんこと、高橋実桜さんのことは、
ちょっと別に書きたいエピソードがあるのだった。でもそれはまた後だ。
さて、この会場に、女王、曽根菜津子さんは、テレビ仕事のため、来ていなかった。
ギャル曽根こと曽根さんは、春の女王戦の頃とは、比べ物にならないほど、
テレビなどマスメディアへの露出が多くなっていた。
菅原が北海道予選に参加した12月、菅原は曽根さんの名前も顔も、知らなかった。
大食いに詳しいう友人は、ギャル曽根というニックネームを教えてくれた。
そして、
「ギャル曽根は、自分より弱い相手には「頑張って」というんだよー。
前に、泉と競り合った時は、「あたし、負けない」って叫んで、見てる人は、
思わずギャル曽根を応援したくなるんだよねー」
という情報を得たのであった。
(もう、頑張って、とは言わせねえぞ)と、菅原は思っていたが、
それほどの売れっ子が、大食い王決定戦に出てくるからには、
やはり、相変わらず化け物じみて強いんだろうな、と、思うのだった。
健康診断前の、アンケートを書いて(身長、体重、既往症、現在の体調などの他に、
一日何食ですか、便は一日何回ですかとか、好物や苦手な食べ物、などの欄があるのが、
大食い王っぽい…)、受診を待つ。
白田さんは山本さんと、
白田さんと三宅さんがアメリカに行って、巨大カボチャを使った料理で、
向こうの大食い二人と対決、という大会の少し前に収録のあった番組の
話をしていた。
放映前だったが、そのことは菅原も知っていた。
対決の前日に、アメリカに渡った三宅さんから、
相手の女性がすごいガッツのある人で不安ですが、
頑張ります、というメールを受け取っていたからだった。
山本さんが、「三宅ちゃん」、白田さんが、「三宅」、と呼んでいるのが、
印象的だった。「三宅さん」と呼んでいるのは、大食い選手では
そういえば菅原だけだった。
正司さんは「三宅ちゃん」と呼んでいたしなあ。
同世代の女の子は「ともちん」と親しげに呼ぶようだ。
って話が逸れてきたぞ。
健康診断の番が回ってきた。
「カレーうどんは、大丈夫だった?喉は火傷していない?」
片山先生が、強い光のあるアーモンド形の目を、見開くようにして、
菅原の喉を診た。猫科の目だな、といつも思う。
「どうですか?」
「火傷はしてるね。でも大丈夫、春の女王戦で、お汁粉のあとは
みんなひどかったもの。正司さんなんかドクターストップ寸前だった」
まあ、たしかにあのお汁粉に比べれば。
正司さんは、はじめ遅れていたのだが、最後の方でスピードを上げてきていた。
次第に熱さを増していたお汁粉だったのに、と思っていたら、やはりそうだったか。
「あと、なにか気になっていることはない?」
「じつは…これなんですけど」
菅原はワンピースをめくって、脛を押した。ベコンというほど、深い痕がつく。
浮腫である。
カレーうどんの過剰な塩分摂取と、そのあと体の欲するままに飲んだ、
お茶類が、そっくり浮腫みとなっていた。
痛みがあるわけではないが、下肢全体が、
熱をもっているような、鈍い不快感のようなものがあった。
「あー、これか。カレーだからねー」
「ウーロン茶や野菜ジュースで、塩分の排出にこれ努めているって感じです」
「そうね、野菜ジュースにはカリウムが多く含まれているからね」
どうなるかと思ったけれど、ドクターストップもかからず、どうやら、
明日からの本選に参加できるようだった。
ビルの外に出ると、雨はまだ降り続いていた。
というわけで、明日からやっと本選に入ります。たぶん。
でもどうして書いているとエピソードを次々思い出しちゃんでしょう。
どんどこ物語の進度が遅くなっている気がします……。
絶対30回では終わりそうもないです。とんもさん、喜んでいただけましたか?
私的には、大失敗ですが。とほほ。
最後の場面だけは、最初から決まっているので、あとはそこまで、
このダラダラした調子で続けていきたいと思います。
おつきあいくださいねー。