宿題をだされた。
言語学について。それに関するものであればなんでもよかった。
ながーい文章を書くのは久しぶりで、格式ばったそれを書くのはさらに久しぶりだった。
大学にいながら、「書く」という行為になれないとは、大学生という身分失格ではないだろうかと、自分を戒めるような感覚になった。されど、いっこうに努力しようとしない私は、生来怠惰な人間なんだろう。
そこで、わたしは「わたし」という一語に限って、コトバの不思議について考えてみることにした。
そしたら、書いてるうちに、結論は言語に関するものではなく、「わたし」という存在自体を捉えるようなものになってしまった。
これでいいのだろうかと思ったが、そのままにしておく。
レポートだけに留まらず、自分で作り上げることは労を要する。でも、その苦労の分だけ、仕上がったものをみるときにうれしさといったらない。
わが子のようなかわいさである。
その実質にたいして、評価を求める前の自己満足に近い。よい、わるいの前に、それ自体の存在に感慨深く思われてならないのだ。
自分の思いを凝縮したという点で、「わたし」の肝心な部分に触れていると思う。だから、わたしはこのレポートをこのブログ上にのせてみたいと思う。
ここでは、小説の感想とか、日々の日常の徒然なる思いを書き連ねていくのみだったけれど、かしこまった文章を突然のせるというのも、私のおおざっぱな性格のなせる業である。
では、ちょっと長くなりますが、のせてみます。
読むのが面倒なときは結論だけみれば、主張は把握できます。
名前を抜かして、ここに公表するのもおかしいとは思います。でも、あえて。
「わたし」のなかの他者
序章
言語とは一体何であるのか。ソシュールは言語学批判によって、新たに独自の言語学を切り開いた。言葉の表す意味は外在する何かでなく、言葉それ自体がすでに意味を含んでいる。それは、意味の形而上学的なア・プリオリな実体性を否定するものであった。(フレディナンド・デ・ソシュール 『一般言語学講義』)
ならば、その言葉の一つである「わたし」とは何か。言語を操る主体でありながら、「わたし」が言葉である以上、彼の理論に従えば、言語構造内の差異でしかない。主体でありながら、操作される客体であるという両義的な側面をもつ。このレポートでは、ソシュールの言語理論を基にしながら、「わたし」という一語が用いられる過程に焦点をあてて、「わたし」が「わたし」とするところ、「わたし」を「わたし」とするものについて考える。
本章
「わたし」について考える上で、ソシュールが提示した2つの命題を参考にする。一点目は、言語の意味の外在を否定である。つまり、アプリオリな実体的な意味の存在を認めず、言葉によって混沌とした世界が文節化されたものを意味とした。二点目は、孤立した言葉のみによっても意味を持つのではなく、他の言葉同士の関係、差異によってしか決定されえないという点である。彼は、ある言語を包括した関係性全体、その構造をラングとした。(『一般言語学講義』)
それに従えば、言語を主体と考えられる「わたし」という言葉さえも、ラングの範疇にあることはいうまでもない。日常的に「わたし」の意志、感情として表現されるものは、確固たる実体としての「わたし」を意味するのではなく、自分が生きる世界から「わたし」を区別すること働きによって、「わたし」は創られると考えられる。ならば、言葉を用いて、「わたし」と表出されることは、逆説的に言葉によって表現されていると考えられないだろうか。
確かに、人間を物理的に捉えるならば、一個の物体として完結している。世界のある場所に位置し、生から死までの期間を恒常的に存在せられている。それは、明らかに感覚を通して認知しうる。しかし、「わたし」という言葉を通しての個としての存在の認知は、物理的認知に留まるものではない。なぜなら、「わたし」の意味は、単に物理的価値のみをさすものではないからである。物理的存在も一部であるが、主体性が意識に浮かび上がるところに「わたし」の全体があるのではないか。
たとえば、身体としての「わたし」が意志するのでもない。それが、感情を有するのでもない。意志するところの「わたし」、感情を有するところの「わたし」とはそれによって説明することは難しい。言語を操る主体であることの把握には、その全体が言語を介してである以上、生物的感覚によってのみ達成しえない。
よって、「わたし」とは、自らが生きる世界から自他の区別をつけることは、世界内の存在として、他と差異を創りだされたものといえる。言語を操る主体であっても、ラングを超えて位置していない。ラング内に「わたし」があることが、個々の「わたし」たちの存在せしめ、世界と結び付けていると考えられる。
さて、ここで新たな問いをたてたい。その問いとは、「わたし」を創造させる主体は何か、ということである。なぜなら、「わたし」が被創造であるならば、創造させる能動的な役割が対立的になければならないからである。創造という行為自体が、自動的に行われるものではない。能動・受動の関係において成立しうる行為である。その主体とは何かを問う。ただし、主体とは「もの」だとも「こと」だとも限定しない。
バンヴェニストは、人称代名詞論において、談話出現におけるプロセスに「わたし」には指示する「わたし」と指示される「わたし」の二つが出現するとした。(エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』1983,みすず書房)すなわち、彼は「わたし」は発話行為の中で用いられる際に、「わたし」を二分化する考えを示したのである。これによって、この問いに答えるのであれば、創造の主体も客体も「わたし」が兼ねていることになる。
しかし、この答えでは、二分された「わたし」の境界が曖昧である。ここで問題とするのは、主客観での相違点である。また、創造の主体・客体それぞれに目を向けなければ、双方の明確な把握も困難である。そこで、二分することの意義を考えた上で、双方を個別に言及する。
まず、指示という行為からも、「わたし」がなぜ二分化しうるのかを考えてみたい。指示という行為は、先ほどの「創造する」という行為と同様に、能動体と受動体を必要とする。たとえば、誰かの名前を呼ぶ状況を考えれば分かりやすい。呼ぶ行為は、呼ぶ対象となる「誰か」の存在によって初めて成立する。「誰か」が存在しない場合、存在する場合と同じように名前を呼んだり、合図をしても、それはすでに呼ぶ行為ではない。単に、声を発しているか、動作をしていることになる。このように、他者など、他の世界内存在に向けられた行為は、その行為を受ける存在の前提を必要とする。従って、「わたし」という言葉によって括られていても、「わたし」が「わたし」と指示しえるためには、指示の主体・客体の両者が含まれる。
ここで、指示主体・客体の相違を考えるうえで、再びソシュールの理論に触れる。冒頭でまとめたようにソシュールのいう言語とは、その構造によって個々の要素同士に差異を作り出し、それが網の目のような意味を有らしめているものだった。すなわち、意味の存在以前に構造が前提とされるのである。よって、世界を文節化する働きとは未分化の状態にある混沌をその網の目をはるという過程が、意味をもたらすことにほかならない。これは、ふたつの「わたし」の間でも起こっているのではないだろうか。
すなわち、指示主体の「わたし」はラングと、指示される対象としての「わたし」を対峙させ、差異化された世界の複雑性でもって把握するのではないか。そして、指示対象の「わたし」は「わたし」と区別された世界は別の、自らの内にもう一つの混沌とした世界ではないか。
人間のコミュニケーション手段として機能する限り、言語とは多くの人間が共通性を持たなければならない。これは、同じ文化、同じ言語共同体の人々の思想、価値観に類似性が見られることからも明らかである。たとえば、日本人、アメリカ人という一つの文化を共有する人間集団に括られて、その内部の人間の特徴を挙げられることは少なくない。言語の共有性でのみ根拠つけられることではないことは言うまでもないが、種々のラングどうして、完全な一対の対応関係を持たないことは示唆的である。
また、世界の文節化が言語と結び付けられている以上、私たちの見る世界はもはや実体的な純粋性はない。言語という色眼鏡でしか、捉えることはできない。それは、まるで直接的に自然を見るのでなく、風景画を見るようなものである。ふと見る景色にうっとりすることも、小雨の降る夕方に物憂げになることも、それらの景色がわたしをそうさせるのでなく、それらの景色に意味を加えられたことによって感情が生まれたと考えられる。
よって、指示主体の「わたし」は他者と共通性をもつラングを持つということは、それは同時に他者との共通性を有する「わたし」である。つまり、「わたし」という個別性を持った個としての存在でありながら、他者との共有性を存する「わたし」といえる。
また、指示される対象としての「わたし」はどうであろうか。指示される以前の「わたし」は未分化の混沌である。混沌に、本能的欲求、気質、素質が備わっているのかもしれない。いずれにしても、それが明らかになるのは指示された後のことであるし、言語の網の目に掬い取られない限り、認識の上にのぼることはないだろう。つまり、前者の「わたし」の助けを借りない限り、後者の「わたし」は未知のままに放置される。そして、言語の複雑性の網にかからない限り、把握される本性も限定されるであろう。しかし、明らかにされた客体としての「わたし」はもはや客体としての立場ではない。対象として、主体と隔てられた立場は、一変する。これについては、丸山圭三郎の表現を借りる。
コトバによって、〈モノ〉が〈こと〉化するという意味で、事物の誕生といっているのです。もともとモノはあるんです。その意味でゃ、まさに私たちの身が分けております。しかし、コトバの網の目のおかげで〈非在の現前〉、今までにないものが生まれてくる。
(丸山圭三郎 『快楽とフェティシズム』)
フロイトのいう「無意識」(ジークムント・フロイト『精神分析入門』)とは、指示対象の「わたし」と似ている。自分が自覚することのできない未知の何かを自分に見出したことは、指示の主体・客体として「わたし」を二分したところに通ずる。
よって、「わたし」を創造する何かとは、自らのうちにあるラングそのものではないだろうか。ラングの網に掬い取られて、指示主体の「わたし」でも指示客体の「わたし」でもない、その中間的な「わたし」が表出される瞬間に創造される。どういう指示であれ、それはもともとの二分化した「わたし」ではない。たしかに、日常的に「わたし」内での分裂は自覚されないであろう。なぜなら、「わたし」という一つの言葉で文節されているからである。両者の狭間は不明確なものなのかもしれない。ゆえに、創造される「わたし」は暗中模索の状況に置かれていることだろう。しかし、だからこそ創造される意義が生まれるのであって、不安定な「わたし」をあたかもそれ自体が実体として信じて疑わないことによって、私たちは自我を形成し、それを自覚していくのではないだろうか。
結論
このように、「わたし」は言葉を操る主体であっても、ラング内に位置され、自らを創造している。そして、創造する主体とは、「わたし」の内部にあり、それは、他者性を潜めたラングである。「わたし」を指示する主体と客体の二者関係があると考えるならば、どちらでもない中間的な「わたし」が分化した「わたし」を超越した包括的な存在として認識されるのだろう。つまり、創造された「わたし」は、そのプロセス過程の主体、客体のいずれでもない。また、客体の「わたし」は指示される以前には姿はない。指示されてはじめて正体が明るみに出されるのである。
私たちは、「わたし」の考え、感情、思考過程を他者からの独立性を疑わないかもしれない。しかし、思考手段が他者と共有していることは同時に他者との共通性を「わたし」にもたらしている。もはや、「わたし」とは何であるのか断定することは難しい。しかし、その他者性なしに「わたし」であることもできない。なぜなら、「わたし」だけの世界には差異は生まれないからである。
参考文献
ソシュール『一般言語学講義』
丸山圭三郎 『文化のフェティシズム』
丸山圭三郎 『快楽とフェティシズム』
丸山圭三郎 『ソシュールを読む』
ジークムント・フロイト 『精神分析入門』
エミール・バンヴェニスト 『一般言語学の諸問題』みすず書房、1983年