基地のある島 |   文鳥とともに

  文鳥とともに

      ”小さな幸せ”を
こぼれ落とさなにようにそっと握りしめ
   ともに歩む足跡をしるします

 

ココちゃんはキビ穂を目の前に

 

 

ご機嫌だね(*^^*)

 

 

 

先の大戦以来の沖縄の歩みを振り返ってみると・・・

 

 

 

大戦末期の沖縄戦。本土を守るための盾となる「捨て石作戦」により凄惨な状況に陥りました。

 

サンフランシスコ平和条約締結により独立を回復した日本でしたが、沖縄(奄美を含む)・小笠原諸島は引き続きアメリカ(米軍)の施政権下に置かれることになりました。ここでも沖縄は本土を守るための「防波堤」として犠牲になっています。

*昭和天皇は戦後間もない1947年9月、GHQに対し「天皇メッセージ」を伝えています。それは、米軍による琉球諸島の軍事占領の継続を希望するものであり、そうすることがアメリカの国益そして日本を守ることになるというものでした。

 

サンフランシスコ平和条約から21年、『核抜き、本土並み』を信じ1972年にようやく本土復帰を果たした沖縄でしたが、有事には核の再持ち込みを可能とする核密約が存在していました。

*非核三原則を唱えた佐藤栄作氏はノーベル平和賞を受賞。

 

今現在は、普天間基地の辺野古への移設問題があります。

 

 

 

 

20年前沖縄に来るまで、私は何も知りませんでした。

 

教科書で学んだこと、新聞やニュースで知り得た知識は持っていたかもしれませんが、しかし実情は何も知りませんでした。

 

恥ずかしながら、自分が何も知らないということを沖縄に来てから知りました。

 

 

 

 

私は沖縄に来て間もなく、2004年12月から嘉手納基地内での勤務となり2010年3月までの5年4カ月、あくまでも業務の範囲内ではありましたが米軍基地、日米地位協定、日米合同委員会の厳しい現実を目の当たりにしてきました。

 

 

 

 

国の安全保障にかかわることですから、私の乏しい経験や断片的な情報だけで判断することは控えなければならないと思います。

 

ただそうは言うものの、歴史的に見てもこの島の負担は大きすぎると感じずにはいられません。

 

 

 

 

米軍問題において日本国民が互いに対立してしまうことだけは避けなければならないと感じていますが、現実は厳しいようです。

 

そして何より、島の人も本土の人も今の現状に慣れ過ぎてしまっているというのが私の率直な思いです。