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From With

子供達に、幸せの見つけ方、教えてあげたい・・大丈夫。隣りにいるから。あなたの周りは、ほら、幸せがいっぱい!!(自宅を色んなお子さんに開放して14年。問題のある子 無い子皆一緒に 同じ時代の同じ時間を生きていきたいな~!一歩一歩、 丁寧に・・)



急に思い立って映画『終の信託』を観てきた。


尊厳死・安楽死を巡るテーマで 普通を生きる私には判決に割り切れない気持ちが残った。が、気持ちだけでは解決出来ない真なるところを考えなければならないと教えられた。


全編を通して発っせられた鉛色の空気に身を置いたまま映画館を出た。


いつものことながら、街は眩しい程に明るく見え 自分だけがフッとそこに降り立った気がした。


クリスマス色の百貨店を横目に酉の市が始まった神社に足を伸ばす。


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平日にも関わらず菊祭りもたけなわの境内は七五三祈願の家族でいっぱいだった。


赤やピンク、黒や緑の愛らしい着物姿がパパの肩にママの腕に祖父歩の両の手にすっぽりと埋まり幸せ以外の何物も入る余地は無いような境内だった。



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尊厳死・安楽死を考えながらトンネルのような映画館を出て、花咲く里のような(明日)だけがある景色の中に身を置いた。








ふっと、


これはともに(愛する人の幸せを願う)形なんじゃないかと思った。


そして、二人の祖母を見送ったとき、孫の私が最期を承認した夜が蘇った。


父方の祖母は軍人の妻として女手一つで慎ましく三人の子を育て、父はそんな母親を入院ギリギリまで入浴を共にする程に愛しんだ。


母方の祖母も母が幼少の頃夫を亡くし、一人娘の母を毎日学校へ温かいお弁当を届ける程に可愛いがった。



そんな二人の代わりにドクターの見解を受け入れ、私が延命治療を終わりにする決断をしたのだ。


私は若い心で絞るように考えた。そこに苦しむ祖母を一番必要としている人は誰だろう、祖母達が一番逢いたい人は誰だろう・・と。








・・・祖父だと思った。
亡くなった祖父だと思った。



もうそこまで迎えに来ている祖父が祖母を一番必要としている、祖母も祖父に一番逢いたいんじゃないか、


そう思った。









若い私には迷いは無かった。







父方の祖母のとき、父は病室の窓を大きく開けた。そして、身体を震わせながら


「お母ちゃん、信さん(祖父の呼び名)のとこへ行きや~。もうそこに来てくれてるやろ。お父ちゃん、長い間 待たせたなぁ。すまんかったなぁ。お母ちゃん 今 返すよってに 連れったげてや~。ほんまに おおきに、おおきにやでぇ。」と言った。


そして、私達は祖母の最期の息を確かめ 父が開いた窓に向かって手を振った。







母方の祖母のときは、見送ってから 祖母の浴衣を少し開いて 母と一緒に祖母の胸の温もりを頬に刻んだ。















私は今でも後悔はしていない。


少しではあったが、二人の祖母達を愛する人の元へ早く返してあげることができた・・・と想うから。


そして、私自身もその時が来たら、(Aさんが先に逝っていたなら)少しでも早くAさんのところに返して欲しい・・・と想うから。












来週、父方の祖母の十三回忌の法要のため実家に帰る。


祖母はきっと 美しく髪を結い上げ 大好きだった菊の裾模様の着物を着て私達のところに挨拶に来てくれるだろう。


そして、戦争で失った二人の時間を取り戻した祖母は どんなにか綺麗に見えることだろう・・・と今から思うのである。



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人のご縁とは なんて不思議なものなんだろう・・・


深いご縁は必ず繋がっていることを身をもって知った週末だった。


11月3日 文化の日は親友Kさんのお琴の発表会で、私はお祝いを持って駆け付けた。


ホールはちょっと入り組んだ所にあって 駅からタクシーで行った方が無難だな、そう思って 「近場で済みませんが・・」と言って乗り込んだ。


案の定タクシーの運転手さんも「ややっこしい場所ですからね~。これでいて渋滞もするので抜け道行っちゃいますね。」と小刻みに角を曲がって走らせた。


「あちらに大きな銀杏の木が見えるでしょ?あれです、あれ。」と言われて窓の外に目をやったとき私は息を呑んだ。


『H助産院』


Nを出産した懐かしい、懐かしいH助産院の看板が見えたのだ。


第一子のFの出産があまりに理不尽なものだったので、Nは是非とも自然で納得のいく出産を・・・と願って、探して探してたどり着いたH助産院。


その助産院の看板を18年振りに見た私は 一瞬の間にモノクロに納めた産室、Nの産声、濡れた頭と一緒に石油ストーブのやかんの音、Aさんが握ってくれた手の温もり、Fがあげた「N君だっ!N君だっ!」の歓声を想いだした。










親友Kさんの発表会は、皆さんの艶やかな着物姿が場を引き立て 一弦一弦の醸す音に深く心を揺すぶられる素晴らしいものだった。


それを見守るKさんのお母様、義母様の後ろ姿も睦まじく 温かい時間を頂いた。









発表会が終わって、最初は帰りもタクシーで、と思っていたが、私の心は真っ直ぐにH助産院に向かい迷わずそれに従った。


懐かしい看板があった。切迫流産の危険を抱いてほとんど横になって過ごした十月十日、いつも祈る様に潜った門。


その小さな小さな助産院は病室も三部屋しかなく、窓の向こうには先生とお手伝いさんが洗ってくれる子供の下着が揺れて見えていた。そんな助産院だった。













インターフォンを押す手が躊躇した。当時でさえ60も半ばに差し掛かっていた先生だ、あれから18年、80歳はとうに越えていらっしゃる。


物音ひとつしない診察室、人の気配のない玄関に一瞬ためらった。


が、これもKさんが繋いでくれたご縁、万が一でもご家族様にだけでもお会い出来たら・・・と、思いきってインターフォンを押した。


・・・・・
・・・・・


応答の無い数秒のあと
「はい。どちら様?」という声が聞こえた。それはあの頃と全く変わらない優しい抑揚で私の元に返ってきた。


そして、静かに開いた扉から愛するNを無事に私の胸に抱かせて下さったH先生が出てこられた・・・。


・・・・・
・・・・・


「先生、先生、」
「あ~、先生、先生」
と私は見慣れた割烹着の肩に身を寄せた。












Nのことを話すと先生は薄っすらと想いだされ、「嬉しいわ、本当に嬉しいわ。さぁ、入って、入って。お茶でも呑んで行きなさい。ね。」と言ってお台所に案内して下さった。


その入り口横に診察室があった。「覚えてる?懐かしいでしょ。私ね ここだけはそのままにしてあるの。見せてあげる。」先生はそう言うなりネジで回して扉を開いて下さった。


6畳程の慎ましい部屋。先生の机、木のベッド、書棚、それだけがある診察室。そこで私は先生の手でNの無事を確かめ、先生の言葉で流産の不安を拭ってもらったのだ・・・


机の脇にはNの心音を聴いた聴診器がぶら下がっていた。お姉ちゃんになるFが「ドッキン先生、ドッキン先生」とまとわりついた日が心を巡った。














84歳、H先生の~健やかな出産~への情熱は衰えてはいなかった。


分娩こそ引退されていたが、2年前の82歳まで現役で後身の助産婦育成に携わっていたと、『助産婦』とだけ添えられた名刺を私に手渡しながら話してくれた。


そして、私は続く言葉に驚いた。


「現役は引退したのよ。でもね、この命、残された時間で私に何が出来るか 今 一生懸命考えてるの。」


H先生は私を真っ直ぐに見ながらこうおっしゃったのだ。


30歳でご主人様を亡くされ、4代続いた助産院を女手一つで守りながら一人息子さんを育て上げたH先生。


本来なら名誉職として講演活動に勤しむだけで見事な(先生曰く)最終章なのに、先生はその起承転結の結にも新しい物語を書き込もうとされている。


そして、「助産婦は60歳からが腕利き、50歳なんて まだその入り口の手前、手前!!」と言ってカラカラと笑われ、その使命感とエネルギーで私を圧倒した。








別れ際、写真を撮らせて欲しいとお願いをしたら、先生は「ちょっと待ってね」と言って 冷蔵庫の扉に掛けてある小さな鏡のところに行って、そこにぶら下げたブラシで丁寧に髪を梳かれた。


その数秒・・・私は先生の人生に咲く花の香を嗅いだ。故郷と教えてくれた信州の雪解けに咲く林檎の花の香を嗅いだ・・・。








帰宅してこの奇跡のような再会のことを話し、驚くNに「近いうちに一緒に先生に会いに行こうね。」と言ったらNは「もちろんだよ。それはもちろんだよ。」と頷いた。


Nは幸せだ。


今にも絶たれそうな命を十月十日守ってくれた人。自分を世の中に送り出してくれた人。


いや、
この世で一番最初に出会った人に二十歳の門出の時に再会出来るのだから。







あぁ、人の世は本当に素晴らしい。








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今秋の朗読発表会が終わった。


多読タイプでない私は一作を仕上げるのに4~5ヶ月かける。その一作も、ほんの5~6ページでサラッと読めば10分とかからない。


今回選んだ作品は太宰治の『黄金風景』で懐古録の風情のある秀作だ。


太宰の才能に助けられ話の展開もよく(よし!)と思って取り組んだのがゴールデンウィーク明け。そのままぐんぐん完成させていけるはずだったのが、どうも読み辛い。


句点ばかりで読点がない。突然 思い出したように話が変わる。調べてみたら、なんとこの作品は口頭筆記によるものだったばかりか、太宰が一気に喋って仕上げたというものだった。


そして、この ふてた太宰、とぼけたお巡り、言い様もなく愛しい女中の3人の噛み合わない台詞で構成された作品は太宰の(気分)に支配され読み手を翻弄する。


苦労した。
朗読は楽譜の無い演奏のようだ、と思った。


楽譜が無いから せっかく見つけたトーンを毎回再生できる保証はない。50回、100回と読み込んで自分の身体に覚えさせていく。


また、私の先生という人が恐ろしく怖い・・・舞台、映画で活躍した男優で今は某劇団の演技監督をなさっている。


いつも「朗読は楽しめばいい。楽にいなさい。」と仰りながら実のところは劇団員さながらに要求してくるのだ。


奇才は鬼才である。私も身体が震え、涙を噛み締めること幾多だった。


(この歳で何やってるんだろう)
(あんなところを目指してるわけじゃないのに)
(やめよう、もうやめよう)と思った。そして、8割方、この発表会で退会しようと心に決めていた。


そんな私に 発表会を前に最長老(85歳)のOさんから声が掛かった。朗読作品を挟むブックカバーを作って下さる、というのだ。


余りに突然で余りに勿体ない話に返事をあぐねていると、Oさんは


「若い頃ね、アメリカでレザークラフト習ったの。皮が少し残ってるから私の最後の作品作ろうと思って。あなたのイメージで色も柄も決めちゃいますから。いいわね?余計なお心遣いはいらないわ。ただ、朗読を止めないでいて。それだけ条件よ。」


そう言って、一週間後にはもう完成して見事なカバーを手渡してくれたのだ。








その時、条件は約束となって私の中に住み着いた。











発表会のカーテンコールが終わって幕に入るなり、私はOさんのところに駆け寄った。


ブックカバーの御礼を言うつもりだったのに、Vサインをして両手を広げて下さるOさんを見ると頷くことしか出来なくなった。


「太宰、読めたわね。」
そう言ってOさんは昔新派の女優だったという筋の通った笑顔で私の肩を叩いてくれた。









私はOさんの条件を この時初めてのんだ。そして、大人の約束を果たそう、とこの時初めて思った。










相変わらず厳しい稽古に

(この歳で何やってるんだろう)と思う。



でも、今は(今暫くは)

(この歳だから約束果たしてみよう)と思っている。







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