私(たち)は、赦されている。

 

そう気づいたのは、この時。

 

 

ワークでイエスと仏陀に会って、それが分かった。

 

以来、他人を赦せるようになって、

それは自分を赦せているからだと分かった。

 

「ひどい」ニュースに前は感情が揺れていたけど、

今は「私もそういうことしてきたなニヤニヤ」と思ってることに気付いた。

 

同じ行為はこの人生でしてこなかったけど、

基になる『そういう想い』はあったな、とか、

胸に手を当ててみると、

過去世でやってたなキョロキョロって感覚がある(汗)。

 

だからって、その行為を支持する訳じゃないけれど。

 

でも、分かりやすい理由を求めたりはしないし、

コントロールしようとしない、裁かない、批難しない、何かあれば統合ワークする。

 

ただただ、どんな行為も「赦されている」んだと思う。

 

だから、「可能」なんだろう。

 

 

 

 

閑話休題。

 

そう、私(たち)は皆、赦されている。

 

暖かい太陽に、月に、星々に見守られていたとふと気づくように、

ずっとその光はあって、私(たち)を照らしてくれている。

 

その体感があって、

まだまだ至らない自分もそれでいいと思えるし、

食べ過ぎても寝過ぎても、一日顔洗わなくても、

まめに統合ワークできなくても(笑)、

前みたいな自己嫌悪みたいなのは無くなった。

 

思考をジャッジしなくなったからか、

動きやすくなった気がする。

 

視野が広がり、動じにくくなった。

 

それでいい。

 

ただ、望む方へ。