ウイズ東淀川9月レポート | ウイズ東淀川のブログ

ウイズ東淀川のブログ

平成6年7月から、東淀川区において結成された、コミニケーション・ボランティア・グループです。
奇数月の第二日曜を定例会とし、【共生】を理念として、共に語り・共に学び・共に遊んでみませんか「をキャッチフレーズに、誰もが集える」場を提供しています。

テーマ:  「これも1つのご縁かと!!」
パネラー: 深谷 佳寿(フカヤ ヨシカズ)氏 「48歳」「全盲」  盲導犬使用者
        鍼灸・マッサージ師 
9月8日、自由空間クラブにおいて、盲導犬使用者の深谷 佳寿(フカヤ ヨシカズ)氏を

お迎えし、定例会を開催しました。

 

☆こんにちは、阿倍野区から来ました深谷 佳寿(フカヤ ヨシカズ)と申します。

ニックネームはピカちゃんと呼ばれています。頭がこのように坊主頭なんで。

ここにおられる森田さんの仲間にもそう呼ばれています。1971年生まれの48歳です。

 

<<動物に囲まれた少年時代>>
 生まれは愛知県でして、両親はそろばん塾を経営。父はすげえ変わり者でして、

自然をこよなく愛しておりまして、小学校の隣に数百坪の原野がありました。

その原野を買って、小学校の廃材をもらってきて、廃材で家と教室を作りました。

あとはその原野を開墾して家畜小屋を作り、牛、ブタ、ヤギ、にわとりを飼っていました。

小学校3年生の夕食の時に父が「明日馬が来る」というような、動物にかこまれての

不思議な生活でした。なので、鳥小屋から獲って来た生みたての玉子を飲んで学校に

行ったりしてました。今考えるとバイ菌だらけの中で生活していたんですね。何食っても

腹は壊さないし、丈夫な身体に育ちました。あの汚さが良かったんだなあと両親に

感謝しています。また両親には、やりたいと言ってダメと言われたことがないんです。

更に、あれをしろ!これをしろ!とも言われたことはありません。ほったらかしと言えば

ほったらかし。好きなようにやれ!という感じで育てられました。その頃は眼は見えて

いたんで、普通に生活していました。「馬に乗って魚の配達に行ったり」普通じゃ

ないかも知れませんが「笑い」
Q:お父さんはそろばんの先生じゃなかったんですか?
A:父はそろばん塾をしながら、朝は、魚市場の競りをしていました。なんせそろばん

10段ですんで、競った魚をその場で計算して、伝票を作れるんですね。なので、

午前中の勤務でフルタイムとみなされていたようです。朝4時ごろから魚市場の競りをして、

昼寝の後、3~4時ごろに、珠算塾「2教室を持っていた」の生徒達が来るんです。

そんな生活をしていましたので、魚はしょっちゅう新鮮なものを持って来てくれたんです。

親戚んちへ持って行けと言われると、「馬で行っていい?」と尋ねると、「いいよ」と言われ、

パッカパッカと馬に乗って配達に行ってたんです。馬は道路交通法では軽車両に

分類されるんで、自転車や原付バイクのように道路の左側を走行しなければなりません。

信号などで止まっているとトラックのコックピットと同じぐらいの高さに自分の顔が

あるんです。運転手が「子供?馬?!」と驚いた顔を見るのが楽しかったんですね。
愛知県の田舎とはいえ、馬を飼っているのは自分っちだけだったんで珍しい

家庭環境だったんだなあと思います。

 

<<姉とは別の小学校へ>>
 小学校に入学するのに近所の学校と教育大学の付属小学校とどちらにするか選ばされました。

姉は近所の学校へ。自分は学芸大付属小学校を選びました。僕は通学に1時間40分ぐらい

かけて通っていました。学校が町場にあるので、盲学校などもあり、たまに目の不自由な

白杖を突いた学生を見かけることもありました。

 

<<手引きがきっかけで結婚へ>>
 僕は4歳からずっとボクシングをしていましたので、ボクシングと遊ぶことぐらいしか考えず

小中学校を過ごしていました。それで、中学を卒業したら、東京のボクシングジムへ

通いたいという気持ちがありましたので、東京の高校を受験し、合格して、寮生活が

始まったんです。東京の高校に通いながらジムに行ってたんですが、ジムの帰りに、

道に迷っている視覚障害者の女性が、いまして、その子がとてもかわいかったんです。

その子は筑波大学附属視覚学校の生徒でした。これがきっかけで生徒会同士の交流が

始まったんです。その彼女とはお付き合いが続きました。グループでディズニーランドへ行ったり、

全盲をぞろぞろ連れて行動したり、フロアバレーなども練習相手としてサポートしました。

そんなことで、盲学校には結構入り浸っていました。その頃には携帯メールもありませんし、

なんとかして交換日記なんかをしたいわけですよ。それで、点字を覚えました。

彼女が指で読めるなら、自分も指で読めないことはないと思い練習したら読めるようになりました。

なので、点字は晴眼者の頃から指で触読していました。参考書なども点字の者は少ないので、

自分が点訳ボランティアをしました。

 

<< 18歳の時、ボクシング中の事故で失明。>>
 そんなこんなしているうちに、高校3年生の時に、ボクシングの練習中に事故って視力を

失いました。で、盲学校に転校することになりました。
~~参加者からの質問~~
Q: 網膜はく離を起したんですか?
A: 視神経を損傷したようです。殴られて失神し、気が付いた時は目が見えませんでした。

自分的には目が回っているだけの様に思っていました。友達に付き添ってもらって、

寮に帰って眠ったんです。あくる日になっても見えないんで、これはやばいなと思いました。

翌日病院へ行くと失明の宣告を受けました。これはたいへんなことだと思い両親に

電話したら、翌日すっ飛んで来てくれました。あの両親っておかしいんですよね、

「一番最初に、連絡してほしかった。少しは心配させてほしい」と言ったんで、しばらく

付き添ってくれるんだろうなあと思っていましたら、3時間で帰ってしまいました。「笑」
1か月近く入院していたんですが、両親はそれっきり来ませんでした。それもあってか、

友達に支えられました。しょっちゅう盲学校の学生達が遊びに来てくれました。

それもあり、ごく自然に盲学校へ転校することができました。転校すると教室の自分の

席の後ろには例の彼女がいました。そんな事で失明の苦労話をしたいんですが、

ないんです。話のタイトルを「ご縁」とさせてもらったのもほんとご縁のある失明だったんです。

盲学校には中途失明者の為の特別授業「点字・歩行訓練」などの特別授業を組んで

くれるんですが、点字の授業の時には先生が点字を良く知っているので驚いていました。

高校3年生の10月から特別に留年も無く、転校したんですけど、何も苦労はありませんでした。

Q: ボクシングでは目に当たったからと言って失明するわけじゃないんですよね?
A: 本当に当たり所が悪かったんです。仮に目に直接当たったとしても1/100の確率ですかね?
A: いやいや僕なんか宝くじ並みの確立だと思います。
網膜剥離はわりと多いんですが、僕みたいに神経を損傷して失明するのは珍しい方です。
この事は分かっていただきたいので、話しますが、僕は確かに彼のパンチで視力を

失ったわけですが、視力を奪った側はそんなことするつもりじゃないし、悪意も全ったく

ないんです。不幸にも練習中の一発のパンチがボクサー生命をうばってしまったんです。

僕はその彼がこの事故によってボクシングを続けていけなくなることが一番ショック

だったんです。謝りに来てくれたんですが、それは違うと思いました。彼が僕のせいで

ボクシングができなくなることがショックでした。こんな話をして、男同士、抱擁し合った

ことを思い出します。結果的に、彼は24歳ぐらいまでボクシングを続けたと聞いています。
また、なぜフェイスガードをしていなかったと言われるんですが、相手は試合の前で

実践感覚をつかみたかったようです。僕もフェイスガードをしていなかったことは

ミスなんですがね

 

<<大学進学を考える>>
 高校3年生だったんで、大学を受けたんですが、どこも落ちたんです。点字受験で

自分のやりたいこととなるとかなり、限られています。ちょっと自分の届かない所ばかりしか

受けなかったんです。結果的に東京都立八王子盲学校理療科「鍼灸・マッサージ課」で

資格を取ることになりました。理療科の単位はなんとか獲れるぐらいの出席率で、

ひたすらバイト「マッサージ・スタジオなどで音響エンジニア」に励んでいました。
ボクサー時代には、いろんなバイトをしました。バキュームカーの掃除など「笑い」

~~ここで唐突に質問が入る~~
Q: 盲人の彼女とお付き合いは続いていたんですか?
A: 盲人の彼女ですか? 続いていまして、結婚しました。

理療科を出て、市立盲学校の助教諭として盲学校に勤めました。彼女は大学に行ってて

大学3年の時に子供ができ、結婚「92年」しました。僕が21歳の時でした。結婚後

助教諭の収入だけだと少ないんで、健康ランドで働きながら開業もしていました。

 

<< 39歳の時に離婚>>
 僕たち夫婦は子育てパートナーとしてはすごく良かったんですけど、お互い独立心が

強かったので、子供がある程度育ってきたら、彼女自身もやりたいことがあると言う事で

発展的離婚をしました。

ですので、友達としては仲がいいんで良き友に戻ったかなあと言う感じです。

Q: お子様方は?
A: 四人いまして、男の子と女の子と二人づつ「女男女男の順」でいます。
 大阪には女の子が一人いまして、動物看護士をしています。小さい頃から動物が大好きで、

高校進学で動物系の高校へ行きたいとの希望で大阪に来ました。
僕も妻も両親にやりたいことをダメと言われたことがないんで、

子供達は好き放題に生きています。

 

~~上記の話などいろんな分野に広がり、深谷さんのお人柄を垣間見ました。

以下に講演内容以外の経歴を記します。

☆ 学校職員を経て、24歳で独立。新潟県を中心に、最大6店舗、40名以上を雇用
 するクイックマッサージ店、「ライフjp」を運営(現在も継続中)
☆32歳の時から盲導犬との生活を始め、現在全日本盲導犬使用者の会会長を務める。
☆39歳の時に離婚をきっかけに関西に移住し、通信系企業に勤務。
 
以上 テープ起し鈴木昭二