パネラー: 上田一裕 氏「全盲58歳」「大阪府視覚障害者福祉協会副会長」
鈴木との関係・・・10年前から日本ライトハウスで評議員を務めていてその会議で
いつもご一緒しています。
☆こんにちは、箕面市から来ました上田一裕と申します。よろしくお願いします。
私は昭和36年生まれです。私の眼は一見見えているように思われますが視力は0です。
ただ強い光を感じるぐらいです。地元の桜ケ丘幼稚園を出て、箕面市南小学校へ
入学しました。得意科目は給食と理科「笑い」でした。当時は速く昼食を食べ終わると、
じゃんけんで勝つとおかずがおかわりで来たんです。好物はグリンピースの入った
カレースープでした。鈴木の給食の思い出は脱脂粉乳で器の底に粉が残っていて決して
おいしいものではありませんでした。「鈴木言」一時戦後の食糧難の話が盛り上がりました。
<<箕面村から箕面市へ>>
昭和39年頃に箕面市になりました。それ以前は箕面村と言ってました。
中学に進学してから、今の様な三角形の牛乳パックになりました。その当時の箕面市は
空き地がたくさんあって、今ごろの様な夏には7時半ごろまでサッカーやソフトボールを
やっていました。中学に入ったら野球部に入りたかったのですが、ありませんでした。
結局バレーボール部に入りました。北摂では結構強かったんですよ。高校は桜塚へ進学
しました。ここで優秀な人は日体大等へ進学しておられました。年間の休みと言うと正月の
三日間、だけでした。通学は自転車で片道10キロで、往復20キロを毎日通っていました。
箕面は山の上なので往路は下り坂道、復路は上り坂になっていますが、
倶楽部を続けていたんです。
<<手術を決断>>
身体がだるい、物が見えにくい、という症状であっちこっち病院へ行ったんですが、
原因が分からない。そこで、大阪医科大学で当時最新の3億円ほどしたCTスキャンで
頭の腫瘍があると言う事を見つけてもらいました。それは高1から高2年のころでしたね。
吹田の循環器センターで手術をしましたら、視力は目を近付けたら、エレベーターの
文字が読めるぐらいの弱視だったんです。手術したら見えるようになるよって言われて
いたんですが、手術以前より暗くて見えにくくなっていました。それが忘れもしません、
12月8日でしたね。勉強の嫌いな僕でさえ、こういう状況になると勉強したくなるんです。
<<ライトハウスから盲学校へ>>
勉強したくても桜塚には行けませんので、盲学校という選択肢を選ぶしかありませんでした。
盲学校へ行くにも点字ができないと勉強もできないんでライトハウスへ半年間入所しました。
9月入所で翌年3月卒業という短期間の入所でした。その間の訓練なんですが、
まずはカナタイプを練習しました。歩行訓練の最初の訓練は立ったまま杖を持って
左右に歩幅ぐらいの範囲を右に左に歩調に合わせて振るんです。実際に道に出て、
歩くのは一日おきに出かける銭湯へ単独で行けるようにする訓練です。第二目標は先頭から
50メートルほど行くとある喫茶店です。第三の目標は放出駅への往復です。歩行訓練の
最終目標は心斎橋のソニータウンでした。このビルの階上のお店でパンフレットをもらって
帰ってくると言うものでした。これができると日常生活で不自由せず、電車・バスなどの
公共交通機関を利用し、自分が必要とする買い物を単独で達成する。ここまで来ると後は、
応用の技術で自分でアレンジすれば、全盲の者でも生活に不自由さは軽減されるもので
あるとの考えから、目標を徐々に遠くへ進めて行きました。
<<京都の盲人三療指導所>>
半年間のライトハウス訓練が終了すると大阪市立盲学校高等部へ編入しました。
担任がU先生で、初めての中間テストで英語の点数が39点でした。
「上田さん、もうちょっと頑張ってもらわんと示しがつかんですよ」と言われました。
点字を知っている方は分かるんですが、英語点字は略語縮語と言うのがあるんです。
これも覚えなくてはなりません。体育の授業ではプール「25メートル6コース」があるんです。
スポーツ万能の学生仲間がいて、柔道陸上水泳など万能なんです。
何がうらやましいかというと、スポーツの大会がある度に選手は公休になるんですが、
出場しない私は一人だけ勉強しなければならないんです。10人のクラスメイトの内
半分ぐらいがスポーツの大会に出ていました。それから、めでたく高校を卒業しまして、
あんま・指圧・マッサージ課へ進学しました。それから京都三療指導所*参照で2年間の
鍼灸の勉強をしました。後に開業し、現在に至っています。取得免許としては
鍼灸マッサージ以外に無線の免許を持っています。
<<騙されて支部長に?>>
府視協「大阪府視覚障害者福祉協会」という会がありまして、18才で入会しました。
目が悪くなったころ、近所の視覚障害者に相談に行ったところ、「府視協に入れ」と言われ、
入会しました。私が誘いを受けた時にちょうど音声ワープロができたんです。
それをネタに入会しないかと言われて、騙された様なもんです。当時は今の様な
3,5インチのフロッピーディスクではなく、5インチでした。
平成4年のある日、府視協の常務が天王寺からわざわざ箕面まで出かけて来て、
青年部長に半強制的にされまして、2年後に箕面市支部長になりました。
平成9年に理事になりました。今年も役員改選があり、茨木市の高橋たえ子氏が
会長になっています。府視協に関わり始めた頃はここまで府視協にどっぷりとつかる
つもりはなかったんですが、今はずぶずぶにかかわっています。平成19年度から
同行援護養成研修をしたり、パソコン講習をしたり、青年部長をやったら辞められると
思ったんですけど、今だに続けています。大阪でタンデム自転車を楽しむ会メンバーの
阿佐さんと一緒に青年部を担当しています。
*昭和56年10月,京都府盲人協会が京都ライトハウス内に「紫野福祉センター」を設立。
社会福祉法人の認可を得て、京都盲人三療指導所、点字出版事業の移譲を受け、
京都府中途失明者巡回生活指導員派遣事業を加える。