・・・。それでは始めましょう(←変更なしかよ)。これで~す()。
「マイホームタウン」(浜田省吾)
作詞:浜田省吾、作曲:浜田省吾、編曲:水谷公生
[1982.11.21発売; オリコン最高位-位; 売り上げ枚数-万枚]
[歌手メジャー度★★★★★; 作品メジャー度★★; オススメ度★★★★]
「ハマショー」と言えば今でこそ音楽シーンで一目置かれる存在ですが、最初に所属したロックバンド愛奴は所属レコード会社のCBSソニーが売り出しに失敗、1976年にソロデビューしてからもしばらくはレコードセールスもパッとせず地味な存在だったんですよね・・・。ちなみにこの不遇の’70年代に彼が所属していたのがあのホリプロで、能瀬慶子、三谷晃代、池田ひろ子など同じ事務所の歌手に、いわゆる“ハマショー”のパブリック・イメージとはおよそほど遠い感じのアイドル歌謡を提供していました。中でも、三谷晃代に提供した「想い出のファースト・キッス」は、こちらが思わずニヤリとしてしまうような可愛らしい作品なのですが、これはまた別の機会にでも取り上げることにしましょう。
閑話休題。1979年にカップヌードルのCMソングとしてリリースされたソロ7作目シングル「風を感じて」(1979.7.1発売、オリコン最高位25位、売り上げ枚数10.2万枚)が、彼の名前が世間に認知されるきっかけとなった最初の作品となりました。’80年代に入ると徐々にロック色の強い作風にシフトして、ライブ・アーティストとしてブレイク。それ以降はとんとん拍子にレコードセールスを伸ばし、1992年には、大ヒットドラマ「愛という名のもとに」の主題歌となった「悲しみは雪のように」が170.3万枚のミリオンセラーを記録したことは皆さんの記憶にも新しいところではないでしょうか。
今回取り上げる「マイホームタウン」は、ハマショーがやたらと「道」にこだわっていた頃にリリースされた16作目のシングルです。アルバムからのカットということでイマイチのチャートアクションに終わりましたが、当時高校2年だった私が浜田省吾を意識して聴くようになったのがこの作品でした。
ポップでありながらもダイナミックで硬質なマイナー調サウンドは、いかにも浜田省吾といった感じで、一本筋が通っていてカッコいいのです 水谷公生センセによるからみつくような重厚なアレンジも冴えてますねぇ。
そして何と言っても、聴いていると様々な想いをかき立ててくれる歌詞が好きでした。この曲がリリースされた’80年代前半というのは、我が国の高度経済成長時代の末期。つまり、“物質的な豊かさ”や“都市化”が飽和状態に陥ってその絶対的価値が低下し始めた時期なんですね。ハマショーは、これを理屈っぽく説明するのではなく(すいません、理屈っぽいのは私でした・・・)、極めて巧みなさじ加減でフレーズを操って、「物が豊富だったり都会化することが、必ずしも幸せではないのでは・・・?」と、現代社会のひずみに関して問題提起をしているのです。
♪ パワーシャベルで削った丘の上いくつもの
同じような小さな家 どこまでも続くハイウェイ
彼らはそこを名付けた 希望ヶ丘ニュータウン
赤茶けた太陽が 工業地帯の向こう沈んでく
♪ 俺はこの街で生まれ 16年教科書を
抱え手にしたものは ただの紙切れ
同じような服を着て 同じような夢を見て
瞳の中少しずつ死を 運び込むような仕事に追われてる
今夜誰もが夢見ている いつの日にか
この街から出てゆくことを
「希望のない街に“希望ヶ丘ニュータウン”とは皮肉だよな・・・」と揶揄する心の動き。そして、「16年教科書を抱えて手にしたただの紙切れ(=大学の卒業証書)なんてクソ喰らえだ」という心の叫び。「毎日仕事に追われる」ことは「少しずつ死を運び込む」ことに似ている・・・というフレーズにも、当時10代半ばだった私は思わずハッとさせられました。ハマショーの使うフレーズ一つ一つは特別なものではないのですが、そこに込められたデリケートな心の動きと深い含蓄に、若くて感受性の強い年頃だった私はこころ惹かれてしまったのかも知れませんね・・・。
それでは今日はこの辺でおしまいにします。またお逢いしましょう~