楽しかったスケートカナダも終わりました。


次の中国大会までの時間、しばしお勉強の時間です。


お付き合い、よろしくお願いします。




日本時事評論 8月7日号 <天録時評>



人権偏重で公共の利益を軽視するな


意味不明の『公共の福祉』を適切な表現に




基本的人権を制限する原理とされる「公共の福祉」の意味を理解している一般国民が


どれくらいいるだろうか。


占領軍の押し付け憲法が招いた意味不明の訳語を、国民にも分かる適切な表現に変えるのは当然だ。


安定した国家、社会があって、個人の権利の尊重がある。


公共の利益のために、基本的人権を制限できるように明記すべきである。





負の遺産




基本的人権の尊重は日本国憲法の最も重要な基本的原理とされている。


第三章の「国民の権利及び義務」は、十条から四十条にまで及んでいる。


三十条の「納税の義務」以外は、具体的に国民の権利を列挙し、


個人の権利を最大限尊重することを求めている。


さらには、憲法は「公共の福祉」によってのみ、これらの個人の権利が制限できるとしている。


十二条に「国民は、これ(基本的人権)を濫用してはならないのであって、


常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」


とし、十三条に「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、


公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定している。




問題なのは『公共の福祉』の解釈である。


『公共の福祉』と聞くと、「公共の利益」や「公益」という言葉を思い浮かべる人が多いだろうが、


意味はまったく異なる。


「公共の福祉」は、個人と個人の権利が衝突した時に、


人権間の衝突を調整するための原理だとするのが通説と言われている。


衝突したそれぞれの権利の性質を勘案し、権利の制限によってで両者が得るものと失うものを


比較検討し、公平という観点から各人の権利を制限することができるというのが『公共の福祉』


という概念だと説明さている。




その理由は、個人の尊重を掲げた憲法においては、個人の権利を制限することができるのは、


具体的な他の個人の権利のみだとする考え方に立っているからである。


言い換えれば、公共の利益や国益あるいは社会秩序の維持のために、


個人の権利を制限することは許されないと、憲法学者、とりわけ多くの護憲学者が唱えている。




こうした考え方に立つ「公共の福祉」は、言葉の印象とはまるで異なり、


実際上は『個人の利益』への配慮に過ぎない。


日本話の持つ意味からはかけ離れているが、


占領軍司令部が提示したマッカーサー案の翻訳過程で造語されたものである。


憲法制定国会でも、言葉の定義について十分に議論されていなかったことを示している。


押し付け憲法の負の遺産である。





社会あっての個人




個人の権利を制限できるのは、他の人の具体的な権利のみであるという通説に立てば、


具体的な誰かの人権を侵害しない限り、個人の権利の制限はできなくなる。


しかし、現実には、公務員の政治活動の禁止や団体行動権《争議権》を制限する法令、


公共の場でのデモを規制する法令、町の美観を守るための立て看板や広告などを規制する条例、


あるいは年金や介護保険などの財産権を侵害する法令などで、


具体的に他の人権を侵害していないにもかかわらず、


個人の権利を制限するたくさんの法令が合憲とされている。




国民健康保険や国民年金に強制加人させるのは、


個人の財産権よりも社会全体の利益を優先するからである。


公務員の政治活動や争議行為の制限は、


社会の公平性や秩序の維持を優先するためなのは明らかだ。


要するに、人権相互の衝突を調整する原理が『公共の福祉』だという解釈では説明がつかない。


公共の利益や社会秩序の維持も公共の福祉の内容として認めざるを得ない。




人権を制限できるのは他の人権だけでなく、明らかに公共の利益や国益、社会秩序の維持、


あるいは道徳や倫理の確保などが含まれてくる。


そもそも個人の権利が尊重され、幸福追求などができるのは、社会の秩序が維持され、


安心、安全な生活が確保されてこそ可能になる。


現憲法の解釈では、個人の尊重を強調している学者が多いが、


社会あっての個人という側面を軽視している。




基本的人権は「他人の権利を害さない限り」あるいは「他人に迷惑をかけない限り」


尊重すべきだと主張しているが、これでは社会は維持できない。


法律に反しなくても、人々が道徳や礼儀、ルールなどを軽視し、人が欲望の赴くままに行動すれば、


社会は不安定化し、荒廃してしまう。


遺徳や社会の様々なルールが守られてこそ、相互信頼が確立する。


信頼が失われれば、経済活助にとって重要な「信用」も消失する。


社会あっての個人だということを再認識すべきである。





国民主権を蔑ろ




自民党の改正案では


「日本国民の享有する基本的人権は、国の安令と公の秩序の維持、


及び他人の基本的人権を損なわない限り、または緊急の事態の場合を除き、


これを制限してはならない」


「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、


公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない」


としている。


国際人権規約も「国の安全、公の秩序、公衆の健康もしくは道徳の保護」(自由権規約十二条三項)


のために、基本的人権が制限できるとしており、改正案は国民にも分かりやすい。




『国の安全』とか「公の秩序」という表現では、政府によって簡単に人権の制限ができてしまうと、


反対する学者がいる。


政府が過剰に人権を制限することがあれば、選挙によって政権の座から降ろしてしまえばよい。


意味不明の言葉を放置し、一般国民に理解できない解釈論を展開している憲法学者こそ、


国民主権を蔑ろにしている。


占領軍司令部の押し付け憲法の負の遺産である「公共の福祉」を、


日本語の適切な表現にすることは憲法改正の重要な課題だ。