和田家文書の中から

面白いと思ったものを紹介しています。

「秋田生保内の辰子」のつづきです。




𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷



楓姫は玉蟲(たまむし)に育てられ
それはそれは美しく成長しました。
郷の人々は生保内の山吹花と讃えました。





楓姫が18歳になるとき
玉蟲は自分が養母であることを告白します。
今まで見たことがないほどかしこまった玉蟲。
楓姫は「急にどしたの❓😆」と笑いますが、
「いいから、よくお聞きなさい」
玉蟲は楓姫を制して続けます。


姫や、そなたの実の母は私ではない。
そなたは畏れ多くも
桓武天皇の末裔 平將門様の娘なのです。
そなたの御母上は
日本将軍安倍国東(くにはる、頻良の別名)の娘 
辰姫様です。
訳あって將門様が膽澤(いさわ、岩手県)に
いらした時に見そめられて側室になりましたが、
武蔵石井(いわい、茨城県)には
正室がおられました。
正室には未だ子がなかったのでとても妬まれ、
辰の方様はいとまを頂くことにしたのです。
そして武蔵大宮の氷川神社に居りました所、
姫様をご懐妊なされたのです。

その頃、父君將門様とそのお仲間は
武蔵から上野、下野、常陸、下総、上総、
相模、伊豆、と広い領地を掌握していきました。
その中には同族の治める土地もあって
935年、取られた領地を巡って戦がおこりました。
將門軍に負けて命からがら逃れた
平良兼(よしかね)と平貞盛(さだもり)は
都へ向かい
將門が乱を起こしたと朝廷に訴えましたが
この訴えは退けられました。

937年、不服だった良兼と貞盛は
將門を襲うのですがまたしても敗れます。
939年、將門様の一族の情けをもって
一命をとりとめた良兼は隠居し、
貞盛はまたも都に上り貴族にとりいって
將門様を罪に堕としめようと
謀略をはかったのです。

その頃、坂東には將門様と親しい
武芝(たけしば)という
地方官がおりました。
そこへ興世王(おきよおう、国の役人)と
源経基(つねもと、護衛❓)がやってきて
武芝の役職を奪い民百姓に
散々な狼藉をはたらきました。
それを聞いて將門様が国府(国の役所)に
狼藉を訴えると経基は逃げてしまいました。
残った興世王のみは深く詫びて、
武芝の役職を元に戻しました。

和睦した興世王は
新任の国司とのいさかいで
將門様の館に食客(居候)となりました。
更に、国府に追われている
常陸の藤原玄明(はるあき)という者をも
館にかくまったのです。

玄明の身柄引き渡しを求めて
国府は二千の軍を挙兵しました。
しかし石井(將門)の兵の数には
全く足りていませんでした。
そしてこの騒動の首謀者は
身内である貞盛だと聞くと、
將門様は阿修羅のごとく怒りました。
国府を攻め、続いて坂東八ヶ国を討ち破りました。
將門様に降伏した国府は
国印と御蔵の鍵を献上しました。

勢いに乗る將門様は
人々に「坂東の神皇様」と呼ばれ
石井の館を神殿のように飾り造り、
戦勝に酔いしれておられました。
そこに忠告したのは
日本将軍安倍國東(くにはる、頻良の別名)様、
すなわちあなたのお爺様です。
しかし將門様は聞き入れず、
國東様は氷川神社におられた
辰の方様をつれて
衣の関(平泉)に帰られたのです。
これを知った將門様は虫の知らせか、
太刀風斬丸と守護神の神像を
使者を使って辰の方様に届けさせました。

その後、將門様は兵を農牧へ帰し、
館に残るものわずか400人。
この機を狙っていた貞盛と藤原秀郷(ひでさと)は
一挙に石井の館に攻め入りました。
そしてついに將門様は
討死されてしまったのです。

將門様の討死の知らせを聞いた辰の方様は
このとき生保内におりました。
母である尼僧のもとに身を寄せて
楓姫様をお産みなされたのが石尊寺です。
楓姫様は幼い頃から病弱で
辰の方様は己が身を龍神の生贄として
龍湖に入水されました。
ただただ楓姫様の健やかな成長を祈る
慈愛深い親心からでした。


‥と、玉蟲はこれまでの月日を語りました。
初めて知る自分の生い立ちに、
楓姫の目に涙が溢れました。
これまで母だと思い甘えていた玉蟲に
泣きながら感謝したのでした。

 947年の春。
19歳になった楓姫は安倍頻良と共に
將門の遺品を東日流石塔山に奉納しました。

そしてその4日後、
生保内へ貞盛と秀郷の追手がやってきました。
楓姫は捕らえられまいと斧を振り回し
必死で抵抗しました。
しかし的を外した刀が肩深く斬り込み
あえなく即死の討死を遂げたのでした。


美しき十九の楓姫を憐れんで、
郷の人々は姫塚を作って葬りました。

山吹の花にも似たる將門の
遺姫はねぶる
生保内の郷

ずっと古い歌が残っていたのですが、
後世になって尊王の世の中になり
この姫塚を国賊の墓だといって
別のところに移すことになりました。
ところが、
塚を掘ろうとすると
大きな白蛇が現れて塚を守った、
と伝わっています。


寛保壬戌年(1742年)4月2日 浅利貞久

(北鑑 第37巻 生保内悲聞 より)



𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷


長々のお付き合いありがとうございました🩷
平將門から楓姫の最後までの段をご紹介しました。

ちなみに秋田県仙北市生保内には
姫塚公園が整備されています。

姫塚公園


聞くところによると、

本当の姫塚は公園からもう少し

離れた所にあったようです。


有りし日の姫塚

※写真お借りしました。


残念ながら今は土地開発で木が切られ、

かなり様子が変わってしまったとか。

姫塚の面影は残っているでしょうか❓

もしこのブログをご覧の方の中に

姫塚についてご存知の方がいらしたら、

是非コメント欄に情報お寄せ願います🙏



平將門の妻辰子が龍神と誓った田沢湖。

將門と安倍頻良の血を引く美しい楓姫。

伝説の里、秋田生保内に行ってみたいなぁラブ



それから、和田家文書の中では
將門を怨霊とするものは
私はまだ見つけていません。
概ね「弱きを助け」のヒーローとして
描かれているようです。

他にも平將門についての記述はいくつかあります。

興味のある方は検索してみて下さい。
サイト内の「全文検索」が便利です。

北鑑


東日流外三郡誌をはじめとする

和田家文書は大量の資料からなり、

一本の小説のようにはなっていません。
各地に残る口伝などを集めたものなので
時々矛盾する表記もあったりします。
しかし口伝を集めた秋田孝季は
「真偽の程は後世に委ねる」として
そのまま残したそうです。

また面白いものを見つけたら
私のつたない現代語訳で
ご紹介しようと思います。



ご訪問ありがとうございますおすましスワン