新しい土地に越してきたら、まず近所のことを知ろうとするだろう。それは当たり前のこと。
自分がどこにいるのかを知りたい欲求は、外洋に浮かぶ帆船に、六分儀もなく、たったひとりでいる船乗りほどにも、切実だ。彼は他にどんなことを考えるんだろう。その船乗りと同じくらい幸運にも、目に見えることをきちんと見て、それらつなぎ合わせていくことにかなりの時間が使える状態にいる。
ヴィジョン(視界)を埋める色のつぎはぎは、空間のなかを動くそのときどきに応じて、別れ、上へ下へと移動し、変形する。現在とは見ることの対象物だ。どの瞬間においても、目の前に見ているのはそんなふうに撒き散らされた色のつぎはぎに埋まった世界だ。
火曜のこと 午後に解放されると外は霙まじりの雨 店のなかは混雑し 陽気でむしろ汗ばむぐらい

傘を払うとこぼれ落ちる それらひそかなため息 ささやき 食器の触れ合う音
いつか鉄橋の近くを歩いていた。

波型屋根の鉄道車庫 私たちは機関車が何台か停っているのを鉄柵ごしに眺めながら、しばらくそれに沿って歩いた。

それから車庫裏の暗いカフェで休んだ。

店内は古めかしい飾り付けの、鉄道員相手らしい質素な店で、椅子なども重く、頑丈にできていた。

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私は前から、噴水のある広場のゴシック式のアーケードの下の書店で、何枚かの複製の細密画の絵はがきが並べてあるのに気がついていた……

-辻邦生「夏の砦」