「扇の国 日本」の話つながりで、扇絵師であった宮崎友禅斎と友禅染のことを。

 

友禅染は、糯米をつかって糸目糊置きをし、多彩な色挿しによって日本画のように文様表現できる技法のこと。現代では、技法ではなく、シルクスクリーンやインクジェットによるプリントも含めて絵画的表現の商品を友禅とする傾向がみられます。

 

友禅染は、その名前の由来となった宮崎友禅斎(1654〜1736)が元禄期に創案したものといわれていましたが、現存する資料から、友禅斎は糸目糊置きと彩色の技法や創作、改良などにも関わっていないことが立証されています。

 

その理由は、宮崎友禅斎の生誕以前に友禅といわれる技法の用例のものが現存していることが確認されているからです。

 

江戸時代初期に徳川家康が石見銀山の鉱山師吉岡隼人に下賜した「銀杏葉雪輪文様同腹」

糸目糊置きと色挿しの技法がみられます。

糸目糊置きによる防染と色挿しの友禅の技法は17世紀中頃には確立していたことは明らか。

 

 

友禅という名称の発祥事には「宮崎友禅斎のデザイン」という意味だったのです。

 

 

宮崎友禅斎は扇面絵師であって、小袖の下絵もしくは意匠原案の製作をしたデザイナーです。

 

現代でも○○プロデュースのものという作品は多くつくられますが、実際のつくり手ではありませんし、まして技法の創案者とはいわれません。

 

意匠のデザインとして、扇面のデザインは手で持てる小さい面積のものです。小袖は大きい面積になります。扇面絵師のような小さい面をデザインしている人が、大きい面積となる小袖にデザインしたことが、散らし模様や尽くし模様、そして絵画的表現へと発展していきます。

 

宮崎友禅斎は扇面絵師として大スターであり、友禅という文字が入ると京都の人にはうける傾向があったのだそうです。この流れは後々までつづき、17世紀に流行の概念が生まれます。世界的にみても上流階級での流行というものはあっても、一般庶民を含めた不特定多数のモードがあったのは日本のみ。明治になると型友禅の流行があり、再び宮崎友禅斎が脚光を浴びスターに祭り上げられました。

 

現存している宮崎友禅斎の手によるものはこれのみです。

宮崎友禅斎「蛍図扇面」◇ 東京国立博物館蔵

 

ではなぜ友禅染の創始者が宮崎友禅斎といわれるようになったのか?

1688年(貞享5年)に発刊された友禅の名を冠した「友禅ひいなかた」があります。これは染色の技法に関して細かく書かれたものですが、その著者は五条堀川の染工である友尽斎清親(ゆうじんさいきよちか)であり、宮崎友禅斎とは別人です。

 

1692年(元禄5年)には友禅斎が自身が「余情雛形」を発刊しています。これはあくまでも、現代でいうところのファッション雑誌のグラビアページのようなもので、図案とタイトルのみで技法などは書かれていません。

 

さらに、昭和30年に発刊された広辞苑で、友禅の創始者が宮崎友禅斎になっていること、高校教科書や観光案内に書かれていることから定着してしまった。

 

そして、現在でも「宮崎友禅斎の掛軸」といわれるものを、呉服屋や着物業界でみることがあります。
 
そのほとんどが、加賀前田藩が贈答用に制作させていたと伝えられる染絵です。表装まで糸目糊置きで仕上げられた作品は、なぜか着物業界のあちこちに未だに宮崎友禅斎のものとして伝存しています。
 
代表的なものが東京国立博物館に所蔵されています。
「友禅染掛幅石山寺観月図」◇ 東京国立博物館
 
染織の歴史を販売宣伝文句で謳うなら、常に学び、定説をアップデートしてほしいものです。でなければ、この情報化社会の中、エンドユーザーの学ぼうという好奇心までを利用したところで信用を失うだけかと…。腕の良い悉皆や職先をかかえ、良いものをつくっているところもあるだけに、それも遺憾に思います。
 
※武蔵大学の丸山伸彦先生の書籍、講義、及び、私的な質疑応答からまとめました。
 

。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

 

 Facebookページに「いいね!」をくださる皆さまありがとうございます。

相互交流までの余裕がなく心苦しく思いますが、励みになっております。
皆さまの寛容さと染織に対する好奇心が私の原動力です♡

 

「きものカンタービレ♪」のFacebookページ矢印