着物を着ることが非日常的となり、冠婚葬祭も略式化がすすみ、嫁入り道具として着物一式を揃えることもなくなりつつある現在、着物関連は斜陽産業といわれています。そんな中、持ち前の技を生かし新規事業に挑む「こはぜ屋」という老舗足袋屋の物語「陸王」

 

我が家にはテレビがないので、ドラマをみることはほとんどないのですが、オンデマンドで第一話を視聴。

 

泣きました…。
 

そして着物オタクの興味をひく設定がいっぱい。

 

物語の冒頭は、足袋をつくるために必要なミシンが故障するところからはじまります。

 

足袋はつま先をふっくらと立体的に縫うことが重要。現代の自動ミシンでは細かな調整がきかないため、「ドイツ式八方つま縫いミシン」をつかった熟練の技でつくられています。(この物語の中のお話ですが、実際にもつかわれているところが多い)

 

「ドイツ式八方つま縫いミシン」は100年以上前につくられたもので、その製造元は今は無く、修理するには現存する同じ型のミシンから部品を流用するしかありません。今はその台数も減り部品を手に入れることさえ難しい…。

 

最新式の機械や道具なら何でもつくれそうに考えがちですが、実はそうではない現実。伝統技術を継承するためには、それにあった道具が不可欠なのです。

 

 

素朴な疑問で思ったのは、ミシンの歴史。

ドイツ人は足袋は履かないのに、なぜドイツ式がいいのだろう…?

調べてみました。

 

ミシンの歴史には諸説ありますが、1790年にイギリスのトーマス•セントが環縫いのミシンを発明し特許を得たのが最初。1810年ドイツの靴職人というクレムスが針先端付近に針穴がついたミシン針を発明。これが近代ミシンの原理の基礎となります。

 

日本では1854年にペリーが徳川家へ寄贈したのが最初であり、はじめてミシンをつかったのは天障院篤姫といわれています。普及したのは明治時代。国産は大砲職人の左口鉄造が1881年(明治14年)第2回勧業博覧会に出品したのが初。ですが量産されるようになっても、量も質も輸入品にかなわず、国産は普及しなかったよう。輸入品のミシン修理職人であった安井兼吉の息子の政義、貫一、兄弟は、1928年(昭和3年)国産ミシンの製造に着手しブラザー工業を立ち上げます。兄弟だからブラザーだったのですね。発表年にちなんで、昭三式ミシンといわれた国産ミシンは耐久性にすぐれ、瞬く間に普及するようになりました。

 

そして、なぜドイツ式八方ミシンが足袋づくりに向いているのか?

 

ミシンは手前から奥へ布を動かし縫い進みますが、八方ミシンは布を動かさずに縫う方向を動かすことができるので、その名の通り八方へ動かせるのが特徴。ドイツでは靴を縫うために開発されたものでした。なので、職人の技でつま先のような細かい丸みも立体的に縫うことができるようです。

 

※詳しい方から教えていただきました。

八方つま縫いミシンには、「おくり」と「はさみ」という独自の仕掛けがあり、縫い針と連動して動くことによって縫いながら襞をつくり立体的にかつ曲線を縫うことができるのだそう。

 

さて、こはぜ屋は足袋づくりの技で足袋の長所を生かしたランニングシューズの開発に乗り出します。

 

第一話の終盤、先細りの状況を打破するために新規事業を提案し助言をしてくれた担当銀行員が前橋支店に左遷。これが前橋であったというのが実はポイント。前橋支店で資料からあるものを見つけます。繭で作られた特殊素材「シルクレイ」

 

日本の西洋式繰糸の歴史は、1870年(明治3年)に前橋藩がスイス人ミューラーの指導のもとイタリア式繰糸機を導入したのが最初。群馬県は絹の国なのです。


ランニングシューズの懸案事項であった靴底の耐久性を可能にするかもしれない新素材が繭からできている!?

実際には「シルクレイ」は存在していませんし、フィクションの素材ですが、着物好きとしては気になります…。

 

 

そして、伝統を残すためにどうするべきか…。

考えさせられるドラマです。

 

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