七夕は、古代中国の「星伝説」と「乞巧奠(きっこうでん)」の風習に日本の「棚機女」が結びついた節句行事です。

 

星伝説とは、いわゆる織姫と彦星のお話のこと。娘である機織上手な織女(琴座のベガ)と働き者の牛追い牽牛(鷲座のアルタイル)が結婚したことによって働かなくなってしまったことに怒った天帝が、天の川で二人の中を隔てて引き離してしまいます。ですが年に1度の7月7日だけ会うことを許し、この日は鵲が天の川に橋を架け、二人は会うことができるようになります。雨が降ると天の川の水かさが増し橋を渡ることができず、二人は会うことができないというお話。星の逢引であることから星合ともいわれます。

 

乞巧奠は、女性が針仕事が上手くなるように織女に供え物をする宮中行事のこと。江戸時代までは行なわれていました。孝明天皇の御代では、赤い袿(うちき)の陪膳の尚侍(ばいぜんのないしのかみ)が、芋の葉に溜まった朝露で墨をすり、天皇が梶の葉に七首の歌を書いてむぎはなの索餅(さくべい)という油で揚げたお菓子を包んで素麺で結んだものを屋根の上に投げるのが慣わしだったのだそう。索餅は瘧(おこり)というマラリアのような疫病にならないように食べるものだったとのこと。七夕の行司食である素麺や冷麦はその名残り。索餅を天の川に見立てたとする説や絹糸に見立てているという説もあります。乞巧奠が行われる三間は天皇以外の男性は入れないので、下段に控えていた非蔵人(蔵人の予備軍の子供)が学問の上達を願いながら星が出ている方向に投げたのだそうです。明治天皇から今上天皇の現在は行われていません。

 

ちなみに、京都の冷泉家では乞巧奠が行われています。梶の葉をに和歌を書き、五色の布に吊るします。星の座といわれるお供えをし、角盥に水を張り梶の葉を浮かべて星を映す用意をし、琴と琵琶もお手向けしているそうです。短冊に願い事を書くのは乞巧奠の風習から、短冊や笹を川に流すのは禊からきたもの。


棚機女(たなばたつめ)とは、豊作をもたらす神の神衣を織る乙女のことで、この棚機女と織女が奈良時代に結びつき七夕(たなばた)の名前の由来になったといわれています。

 

衣紋道高倉流東京道場の乞巧奠の室礼は、平安末期の「雲図抄(うんずしょう)」という清涼殿における儀式の際の配置を参考に再現しています。

四隅には竹を立て細い縄を張り渡して、梶の葉と5色の紙が垂らされています。かつては梶の葉に願い事を書くこともあり、しで(垂、四手、幣)は、昔は木綿(ゆう)という晒した麻を用いたものが、5色の紙になり現在の願い事を短冊に書き吊るすようになりました。

 

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