上巳の節句 / 上巳の節句の装い 志ま亀のふくら雀小紋に貝桶文様の染め帯  のつづき

3月4日となりました。
上巳の節句が過ぎてもおひなさまを飾っておくと、婚期が遅くなるといわれております。それは、厄払いとしてつかわれた人形の由来と、よいお嫁さんになるには片付け上手であったほうが良いという教訓的なことからいわれるようになったようです。ちなみに旧暦の上巳の節句は2016年4月9日ですので、旧暦にあわせて楽しむという選択もありかと思います。

衣紋道高倉流東京道場のリアルお雛様ですぼんぼり・・・?(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)

「お内裏さま」と「お雛さま」
という固有名詞が定着しておりますが、内裏は紫宸殿のことをいいますので、お内裏さまは男雛と女雛の両方をいいます。

お内裏さま=男雛、お雛さま=女雛は、サトウハチローの作詞による「うれしいひなまつり」の歌詞で、〜♪ おだいりさーまと、おひなさまー 〜と唄われたことから、定着してしまったのだそう。サトウハチロー氏はこのことを悔いていたようだ…と親族の方が語っています。

お内裏さま◇直衣に指貫袴、御立纓の冠
お雛さま◇五衣唐衣裳(十二単)、紅梅の匂いの襲目
左大臣(左近衛中将)◇武官束帯の黒闕腋袍、巻纓冠に老懸
右大臣(右近衛少将)◇武官束帯の朱闕腋袍、巻纓冠に老懸


こちらの雛人形は江戸時代につくられたもの。お雛様の冠は天冠。能楽では天女や女神のような人でない天人が身につけています。女性天皇(明正天皇、後桜町天皇)が身につけたのは宝冠なのだそうです。雛人形では、お内裏さまとお雛さまどちらも天皇というわけにはいかないので、天冠なのではというお話でした。

応仁の乱後、宮中の祭儀が簡略化され、装束の形式が伝承されない時代がつづきます。小袿が礼装化され、女房たちも十二単にかわって小袿を礼装として着るようになります。南北朝時代~江戸時代は五衣唐衣裳(十二単)は着られるなくなってしまいますが、徳川将軍家から後水尾天皇のもとに中宮和子の輿入れがあり汗衫装束と五衣唐衣裳が復興されます。裳は肩からかけるものと腰につけるものとになったのだそう。今の五衣唐衣裳は腰につけています。現在は五衣唐衣裳(十二単)は礼装として着られるようになり、小袿は唐衣と裳を簡略化した装束となりました。

束帯の平緒の麻の葉にぐるぐると華の刺繍がモダン

お雛様の唐衣は唐草に丸紋の鳥と桐の刺繍


古来の日本は左上位でした。なので雛飾りは本来は左側(向かって右側)が玉座となります。
明治になり西欧の王室流儀にあわせて、天皇陛下は右側(向かって左側)皇后陛下は左側(向かって右側)となったので、関東の雛人形はお内裏さまが右側(向かって左側)お雛さまが左側(向かって右側)で飾られることが多くなりました。ですが、関西では左上位の古来からの飾り方が多く、高倉流では古来の左上位の飾り方です。左大臣と右大臣では左大臣が上位。帝からみて左側が左大臣、右側が右大臣。大臣となっていますが、武官束帯の闕腋袍、巻纓冠に老懸、胡簶に鷲の矢羽という、何かあったときに動けます!という機動力をあらわした武官束帯ですので、近衛中将と近衛少将ということになります。


リアルおひなさまは動く!
おおっ~\(゜□゜)/


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