八丈島を知る at 八丈島歴史民俗資料館 / 2015年初秋 八丈島の旅 その4 のつづき(^-^)/

八丈島といったら、黄八丈!
資料館には、黄八丈の歴史や工程の資料展示もされています。


八丈島の由来は絹織物の「八丈」からきています。八丈は一疋(二反分)の長さが曲尺で八丈(約24m)に織られた事に由来する名称です。本居宣長「玉勝間」に「神鳳抄という書物に諸国の御厨より大神宮に奉る物の中に、八丈絹幾疋という表現が多く見える。したがってこの絹はどこの国からも産出したのである。伊豆の沖にある八丈が島というところも昔この絹を織りだしたので島の名にもなったのに違いない……」とあり、八丈絹が織られる島だったことが八丈島の由来といわれています。
※神鳳抄とは伊勢神宮の領地一覧のこと

八丈島で絹織物は丹後と呼ばれていたそうですが、鎌倉時代執権北条氏に献上されたときは黄紬と「吾妻鏡」に記載があり、無地のものは八丈、八丈絹といわれて縞が織られるようになってから、八丈縞、黄八丈などと呼ばれるようになったとのこと。黄八丈と呼ばれるのは江戸末期になってからとも近世ともいわれます。諸説あります。

黄八丈は大岡政談の白子屋事件が「恋娘昔八丈」という人形浄瑠璃となり、後に歌舞伎として上演され、瀬川菊之丞がお駒役で黄八丈を着ていたことから江戸で大流行となりました。

格子の平織の黄八丈は現代で着ていると日光江戸村から脱走してきたようにみえなくもないので、あまり着ないのですが…、八丈島には里帰りさせたいです。今回は暑かったので冬かな…。


八丈島はかつては桑の木が自生し養蚕が行なわれ、平安時代には絹織物が織られていたといいます。鎌倉時代には執権北条氏に黄紬が献上されたとの記録があり、室町時代には関東管領上杉氏、北条氏、奥山氏、三浦氏が八丈島の絹織物を求めて争ったようですが、島の人は誰が主君であるのか気にしていなかったよう。「甲陽軍鑑」には北条氏政から武田信玄に八丈嶋二十反を、「当代記」には家康が秀吉に八丈島五百反を贈った記録があり、本土でも知られた貢納布でした。
1604年(慶長4年)に徳川幕府の直轄地となると、稲作に向かない八丈島は年貢の代わりに定められた貢納布として絹織物を収めることになり、1909年(明治42年)の地租改正までつづきます。

八丈ススキをつかった養蚕籠であるエイガ。八丈島では古式の養蚕術が行なわれていました。滝沢馬琴「椿説弓張月」では蓬莱山を目指した徐福の一行が八丈島に養蚕を伝えたとされています。
江戸末期に安政の大獄に連座し流刑された福島県伊達郡の菅野八郎によって本土の養蚕術が伝えられました。昭和30年頃までは養蚕がされていますが、現在は島外から生糸を仕入れています。

貢納布として幕府に納める黄八丈の反物の見本帳である「永鑑帳」。詳細はこちら☆ でご紹介しています


カッペタ織と地機については、めゆ工房のレポでご紹介します。

八丈島に高機が入ってきたのは、1889年(明治22年)。山下与惣右衛門によって導入されました。山下与惣右衛門は、山下めゆ(山下芙美子先生の祖母)の祖父にあたる方です。

山下家は大山下家の「御船預」といわれる幕府の直轄地である八丈島の官船を預かっていた御家。貢納布の黄八丈を江戸へ運び、帰って来るときには注文の柄見本や米、木綿、生活用具などを持ち帰ってきたのだそう。ときには流刑囚も。江戸から船が戻ってくると銅鏡を神さまに供える習わしがあったそうで、その銅鏡の多くは資料館に展示されています。


八丈島の海難事故で今に伝わるお話。
貢納布の八丈絹は1640年に曲尺から鯨尺に変えるという強攻策がとられ25%の増税となりました。
丈を曲尺で3丈2尺を鯨尺で3丈2尺にすると曲尺では4丈(40尺)、比率として25%多くなります。これを命じた代官の豊島作十郎は1644年に暴風雨の海で亡くなりますが、その舵をとっていた船頭の小船方の佐藤弥惣右衛門が自らの命を捨てて島民の恨みを晴らしたものとして伝わり、長く島民から祀られているのだそうです。
幅は曲尺で1尺4寸。普通はもっと狭い幅ですが、八丈島では貢納布の八丈絹は曲尺1尺4寸、鯨尺で1尺1寸2分の前例のまま。
※鯨尺は曲尺の1.25倍。1丈は10尺

※きもの文化検定1級を受験される方は、よく調べられることをオススメいたします。

工程、染めと織りについては、めゆ工房の見学レポでまとめますφ(.. )

参考資料◇八丈実記、八丈裁衣織、東京都公文書館資料より

八丈島の歴史を知る上でかかせない「八丈実記」の著者は近藤富蔵。択捉探検家の近藤重蔵の息子であり柳田国男は民俗学の草分け的存在と評しています。井伏鱒二「青ヶ島大概記」の種本です。

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