八丈島のキョンに会いにいく at 都立八丈植物公園 / 2015年初秋 八丈島の旅 その3 のつづき(^-^)/

八丈島歴史民俗資料館へサーチ

しつこいようですが、東京都内です。

かつての八丈支庁舎が八丈島の歴史を知る資料館となっています。

「おじゃりやれ」は八丈島の方言で「ようこそいらっしゃいませ」の意。奄美大島の「いもーれ」のような感覚でしょうか。島国には島国らしい旅人を招く美しい言葉が残っています。

木造のかつての市庁舎の趣ある造り。保元の乱で敗れ伊豆七島に流された源為朝の描かれた凧。八丈島には為朝伝説が数多く残っているのだそう。八丈島の流人のはじめとされていますが、公式記録としては、関ヶ原の戦いで敗戦の将となった宇喜多秀家がはじめです。


八丈島は三原山といわれる東山と八丈富士といわれる西山が火山活動でくっついたひょうたんの形をした火山島。面積は山手線の内側とほぼ同じ。ひょうたんの形をしていることから「ひょっこりひょうたん島」のモデルといわれています。プリンプリン物語世代なので、ひょっこりひょうたん島は主題歌を聞いたことがあるような…的レベルで知らなかったのですが、それで馴染みがある方が多いようです。
東山と西山では植物の生態系が違います。東山の樹木の8割は黒を染める椎の木、西山の樹木の8割は樺色を染めるタブの木(マダミ)が自生しています。どちらも黄八丈の染料です。
資料館の方が八丈島についてご説明くださいました。
八丈島は本土との間を隔てている暖流の黒潮の影響で年間を通して暖かく常夏の島。戦後は日本のハワイといわれていて新婚旅行に訪れる方が多かったのだそう。今でも主要産業は観光だそうです。観光地であっても俗化されていない八丈島がとても好きになりましたドキドキ
黒潮を横断するのは航海の難所とされ今の船旅でも揺れるとのこと。ゆえに流人の島抜けの難所として知られ、それによって「鳥も通わぬ八丈島」「絶海の孤島」といわれ独自の文化が開花したとのことでした。


八丈島は約7000年前から人が住んでいた痕跡があり、磨製石器や黒曜石の鏃が出土しています。本土から持ちこまれた?縄文式土器も発掘され島伝いに人がやってきたのではとのこと。
史書では吾妻鏡に1186年(文治2年)に相模の国に属した記録が最初。

島の人々の生活が紹介されていました。籠は八丈馬草(ススキの一種)で編まれているとのこと。


伊豆七島図絵にみられる八丈島の女性の装束。髪型は琉球や奄美に近い?琉装に似ているという話もあるようですが、琉装には対丈で身八つ口がないので、やはり小袖や小袿に近いよう。
八丈島は女護島ともいわれ女性しかいないといわれた伝説の島。井原西鶴の「好色一代男」が最後に目指したところです。不老不死を求めた徐福伝説では男は青ヶ島、女は八丈島に残し年に一度の逢瀬があったといわれています。滝沢馬琴の「椿説弓張月」では為朝が機織り娘からここが女護島だと教えられる島です。美しい織物を生みだしたし代々女性が受け継いでいることからいわれているとも。


八丈島の生活が書かれた貴重な史料である近藤富蔵「八丈実記」の緑地社刊行版。
そして江戸時代に年貢として幕府に納める黄八丈の反物の見本帳である「永鑑帳」が展示されていました。←本物です\(゜□゜)/
展示で確認できたた中で一番古いものは幕末の弘化4年(1847年)のもの。他は明治時代のものでした。

八丈島に自生する植物から採れる染料のみをつかった縞と格子だけでもこれほど多くのものがあります。八丈織といわれる八丈島の織物については別記事でまとめますφ(.. )


資料館からみる中庭の風景がノスタルジック

足元には珊瑚が散りばめられています。

雨の後、青空が広がり空気がきれい。中庭には高床式倉庫があります。

大きな蘇鉄の木。奄美大島に似てるけれど、奄美大島よりも俗化されず古き良きものが残っているような。

中庭からみた元市庁舎の趣もいい。

市庁舎だったころの門扉。高床式倉庫と亜熱帯植物でここはどこ?という感じですね。


八丈島歴史民俗資料館で予習?した黄八丈の歴史、工程などは別記事でまとめますφ(.. )

八丈島レポ、つづきます(^-^)/

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