衣紋道高倉流たかくら会 七夕の節句 / 7人の装束(白拍子•平安期十二単•夏の細長)  のつづきです

7人の装束を纏った皆さまとカメラ


●小袿
平安時代、身分が高い中宮(定子や彰子)は寛いだ装いが許され小袿でした。
室町時代になると簡略化がすすみ、小袿が礼装化され、女官(女房)たちも十二単にかわって小袿を
礼装として着るようになります。南北朝時代~江戸時代は十二単は着られるなくなってしまいますが、
江戸時代、徳川将軍家から後水尾天皇のもとに中宮和子の輿入れがあり十二単が復興されます。
十二単は礼装として着られるようになり、小袿は唐衣と裳を簡略化した装束となりました。
明治になると十二単は即位の礼や皇族のご成婚などだけの最高位の装束となり、通常の儀式などでは
小袿の装いが定着します。
身分の高い方がお召になられるものは小袿、女官や夫人のものは袿といわれます。

小袿にある中陪。袿はおめりといわれる裏地が表地からみえる仕立てになっていますが、表地と裏地
の間に別の色の平絹を挟んで仕立てた三重の仕立てが小袿といわれます。

小袿には中陪があるものとないものがあり、あるものは皇族の方がお召しになられる小袿のことが多い
ようです。ないものは袿とされます。
例外もあります。


●袿袴
明治時代には西洋化がすすめられたこといより、宮中ではきものが着られることはなく、
洋服か装束かになり、1884年(明治17年)には小袿姿を簡略した袿袴が宮廷服となりました。

袴の大きな特徴は袴が長袴でなく切袴であることです。
道中着姿とは移動するときにお召になられるときの装いのことで、最近では出雲大社権宮司の
千家國麿さんと高円宮女王典子殿下のご結婚式での袿袴道中着姿が話題となりました。


●汗衫
成人前の童女は裳を纏うことはできませんので、この十二単にかわる晴れ着として発達したのが汗衫。
元来は汗取りとして着用されたことが汗衫の由来。

濃色(紫)の長袴(張袴)に白の表袴(うえのはかま)を重ねます。

一番上に汗衫の袍、袍には垂領(たりくび)と盤領(あげくび)の二形式があります。
こちらは盤領の袍。さらに石帯または当帯でとめます。


●東賢子(あずまわらわ) ←はじめて知りました!
天皇の行幸の際に騎馬で供奉する内待司の五位の内命婦。姫松ともいいます。

冠、五位の袍、指貫、唐衣、石帯、裳を身につけます。

三つ子は天皇の守であるという説から三つ子の子女が選ばれ「姫さまうちぎみ」として五位の位が
与えられ、紀朝臣、河内宿禰を襲名させたという記録が、延喜式(927年)にあるのだそう。


時を経て伝えられ残っている装束、目にすることは稀ですが、何と奥深いことか…。
仙石先生のお話から知ることは際限なく興味深いです:*:・( ̄∀ ̄)・:*:


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