前回の江戸時代の技でなく趣を今に伝承しているのが現在の江戸小紋というお話がありましたが、そのつづきです。

小紋染めがつかわれたものの代表的なものが素襖。
素襖は室町時代中期に直垂から派生した武士の日常着のことです。

かつて武田信玄像といわれましたが、現在では畠山義継像の説が有力視されています。
能登出身であった長谷川等伯が信春時代に描いたもの。
等伯の父親が畠山氏の家臣であったこと、刀の紋が武田の四割菱でなく二両引きであることが、武田信玄像ではないといわれる由縁です。
中の小袖は辻が花染め、外は銀杏葉文様の小紋染め。素襖の特徴である腰紐が共布となっている。


儀礼的なものが簡略化していき、16世紀後半には素襖から肩衣袴に、江戸時代に裃となります。
裃でつかわれたと誤解されがちな江戸小紋の技法は化学染料が入ってきてからのものであり、それまでは小紋染め。江戸時代の小紋染めは型付けの引き染めか長板中形の浸染です。

現存最古の雛形本は1666年(寛文6年)「新撰御ひいなかた」に出版されますが、最古の染色技術書といわれる「紺屋茶染口伝書」も同じ年の刊行。当時の最新のメディアであった版本で技法や文様を公開することになります。
これは17世紀、急速な高度成長期を迎え町人階級の台頭により需要が拡大し一部の染工が特殊な人(大名や旗本)のみにやるのでは追いつかない状況が生まれたことによっておこった現象です。

「紺屋茶染口伝書」は上下巻からなり、上巻は浸染、下巻は引き染めが主体となっています。
萌黄色は黄緑、木賊色は深緑が今日の色の表現ですが、この中では萌黄色が深い緑に染まるように染め方が紹介されているなど、時代によって名称が変わることもあるとのこと。
他には「鼠返し」は藍で浅葱色に染めてからその上に型紙を置き地色を藍鼠色に染めたもののこととある。
ここでいう、返しは地色を染めることをいいます。


1683年(天和3年)の奢侈禁止令によって絞りの着用を禁じられたことから生まれた、型紙をつかった鹿の子染めには、二枚の型紙をつかう場合と糸掛けの型紙をつかうものがあります。

二枚の型紙には主型と消し型があります。
型紙は文様全体がどこか繫がっていないと抜けてしまいます。繋がりが少なければ型紙は不安定になってしまい、糊置きはできません。縞などは糸入れによって文様を安定させますが、囲うように繫がった丸や白地に散らした点の文様は一枚の型紙で彫ることはできないのです。そのために、ひとつの文様の7分3分か6分4分に分けて2枚の型紙に彫ります。これを「二枚型」といいます。消し型が主型を追っかけることから「追掛型」ともいいます。

「つり」といわれる文様の繋を残して文様が多く彫られた型紙は「主型」

主型のつりを消す型紙は「消し型」

主型で糊を置き、その上から消し型で糊を重ね置くことで文様が完成します。
紗綾形と貝の中の細かい点だとわかりやすいでしょうか?
下が主型のみで染めたものです。

※写真は「朝田家の美~型紙コレクション~」より。

「長板中形」重要無形文化財技術保持者の清水幸太郎氏の制作工程

※伊勢丹研究所による映像より

注染、籠染め、ロール捺染がでてきたことによって、浴衣の量産化がすすみ、高い技術を要し、手間もかかる長板中形の技をもつ職人はとても少ないです。
しかし、現在ではプリントでの染めが主流となりつつあり、注染や籠染めも無くなりつつあります。
籠染めとは、大正時代から行なわれているリバーシブルになる両面染め。伊勢型紙から刷りとった柄を真鍮にエッチングした円筒形のローラーをつかいます。異なる柄が彫られたローラーの間に生地を通して型づけし浸染したもののこと。

長板中形の中形とは小紋よりも大柄の模様のこと。染めは木綿地の両面糊置きの浸染の本藍染めがほとんどですが、稀に絹や麻にも染められます。松原先生の「漣」は夏大島の長板中形です。
両面糊置きすることで、白場がスカッと鮮明に白く抜けるのが特徴。
中形が用いられた多くは、湯帷子だったため、浴衣をさす言葉としてもつかわれました。
長板中形は江戸時代からつづく技法を今に忠実につたえています。
工程と詳細は松原伸生先生の講義につづきます。