衣紋道高倉流たかくら会のふたあいの会へぼんぼり・・・?

「小袿(こうちき)」で投扇興♪


高倉流宗会頭の仙石宗久先生のお話は「皇女の誕生から結婚まで」

平安時代、宮仕えする女房(清少納言や紫式部)が主人にあうときに着装したのが「五衣唐衣裳(十二単)」です。それ故に、女房装束といわれます。身分が高い中宮(定子や彰子)は寛いだ装いが許され「小袿」でした。

公家社会から武家社会へ政権が変わると、公家装束の文化は簡略化の一途を辿ります。
十二単は重ね袿の上に直接唐衣と裳をつけただけで正装となってしまい、本来の十二単は大礼服となってしまったそうです。小袿は十二単に代わり礼服となりました。

江戸時代になって政治が安定すると、十二単が復興されます。
仙石先生のお話によると、きっかけとなったのは後水尾天皇にお輿入れされた和子さま(家康の孫)のご成婚ではないかとのこと。和子さま(後の東福門院)のために童女の正装である汗衫と十二単がつくられます。

明治になると十二単は即位の礼や皇族のご成婚などだけの最高位の装束となり、通常の儀式などでは小袿の装いが定着します。身分の高い方がお召になられるものは小袿、女官や夫人のものは袿といわれます。

西洋化がすすめられたこといより、宮中ではきものが着られることはなく、洋服か装束かになり、1884年(明治17年)には小袿姿を簡略した「袿袴」が宮廷服となりました。

宮廷装束が隆盛であった平安時代、武家が台頭しその後衰退していった江戸末期、そして開国後の明治から平成の現在まで、時代背景と共に宮廷装束も変化しているのです。

左◇袿袴道中着 / 右◇細長


2014年10月5日に出雲大社権宮司の千家國麿さんと高円宮女王典子殿下のご結婚式が
出雲大社にて執り行なわれました。

出雲大社の参道を歩かれた典子さまの装束が「袿袴道中着」のお姿です。
道中着姿とは移動するときにお召になられるときの装いのこと。
切袴には共布でつくられた靴を履かれます。濃色(紫色)の袴は未婚~第1子ご誕生まで。
この靴の下に履いているのは、襪(しとうず)という足袋のようなもの。

日本は畳文化で靴を履くようになったのは明治からといわれていますが、公家の装束では畳以外では、浅沓、烏皮履、絲鞋(絹糸で編まれたズックのようなもの)などを履く文化がありました。
女性も五衣唐衣裳、五衣小袿長袴の際にも沓をはいていました。

1873年(明治6年)富岡製糸工場を昭憲皇后と英照皇太后が行啓された際、袿袴装束に切袴と同じ生地の靴を履いていたことが話題になったのだそうです。

荒井寛方◇「富岡製糸場行啓」聖徳記念絵画館壁画も展示されています。
袿袴装束に切袴と同じ生地の靴に注目です。緋色の切袴は既婚をあらわします。

千家國麿さんの束帯の地紋は出雲国造家の家紋。
高円宮典子女王殿下の小袿は黄色地に朱色向鸚鵡文様に萌黄色の草文様の二陪織物。


ご結婚式に先立ち、2014年10月2日、高円宮典子女王殿下は宮中三殿にて賢所皇霊殿神殿に謁するの儀に臨まれました。これは皇族としての別れを告げる儀式なのだそうです。

高円宮典子女王殿下の髪型は「わらわ」
三笠宮百合子妃殿下が貞明皇后より贈られた生地でつくられた小袿に濃色の長袴の装い。


皇女が天皇家からはなれる儀式である、謁するの儀の装いは、昭和天皇の皇女であられた島津貴子さん、池田厚子さんも小袿に長袴、黒田清子さんは今上天皇の即位の儀のときと同じ十二単だったそうです。

出雲国造家の家紋に典子女王殿下のお印の蘭の花のボンボニエール


●袿袴の道中着姿の着装● 2回の着装実演をまとめました。

袴の腰の上に太い丸くけ紐を結びます。

後姿はこんな感じ

お方さまに袿を打ち掛けを上側から差込いれ裾をたくり上げます。

たくし上げた中に折り畳んだ和紙を入れ込みます。

完成です。

後姿はこのようになります。


皇女の細長、十二単、束帯の着装は別記事でまとめますφ(.. )

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