先月、全日本きもの振興会主催による第9回きもの文化検定の受験を申し込まれた方と
過去の1級合格者を対象とした米沢の工房見学会がありました。

関ヶ原の戦い後、会津120万石から米沢30万石へと大幅な減移封となった上杉藩。
上杉景勝の重臣であった直江兼続は、越後で行なっていた農閑期の麻布生産を米沢の地
でも奨励し、その他に桑や養蚕そして紅花の生産に力を入れました。
そして「人こそ組織の財産なり」と称え、人員削減をせず財政難を乗り越えます。
兼続の政策は、後の上杉鷹山に受け継がれ、現在の米沢織につながっていきます。

米沢は繊維栽培(苧麻)の北限の地であり、紅花の産地、そして人絹(レーヨン)が日本で
はじめて発明され生産されたところでもあります。
そして、私が好んできている置賜紬の米沢琉球織物(米琉)の産地。
知りたいこと見たいところいっぱい~(ノ゚ο゚)ノビックリマーク
なので、工房見学会の前泊と後泊で観光と工房を見学することに。

まずは、米沢城趾にある上杉神社へ。

上杉の軍旗は毘沙門天の「毘」と不動明王をあらわす「龍」
「毘」の旗には戦勝の加護と勝利を祈願して、「龍」の旗は「懸かり乱れ龍」
の意。敵陣に総攻撃をかけるときに本陣にたてられたといわれています。

上杉景勝と直江兼続
二人が幼少期に勉学を学んだといわれる雲洞庵のレポはこちら☆

上杉鷹山
高鍋藩主秋月種美の次男として生まれますが、祖母の瑞耀院(4代上杉綱憲の娘の豊姫)
に養育されたことにより、8代上杉重定の婿養子となります。
※上杉家は上杉謙信の姉の子の上杉景勝をはじめとして女系が多い。
鷹山は上杉家中興の祖。直江兼続の遺志を受け継ぎ、藩政改革を行ないます。
1776年(安政5年)越後小千谷から職人を招き麻織物を家中の女子に学ばせたといわれ、
これが米沢織のはじめといわれています。
麻織物から桑と養蚕に力を入れ麻と絹の交布、そして絹織物へと移行。
長井紬、米沢紬、米琉、白鷹紬といった置賜紬へとつながっていくのです。

上杉謙信が祀られています。
江戸時代、謙信の遺骸は米沢城内の御堂に安置されて真言宗寺院によって祀られていました。
明治になると仏式から神式となり、上杉謙信と鷹山を祀る神社として創建されます。
後に鷹山は摂社に祀られ、謙信一柱の神社となりました。


宝物殿の稽照殿

上杉謙信と景勝の遺品と伝わる服飾品は、センスも秀逸ですが、染織史の中で
重要なものが数多く残されています。
この日は団体客が多く撮影許可をいただくのを断念。なので写真は参考資料です。


上杉謙信が着用したと伝わる「紫白地竹雀丸紋綾腰替小袖」が展示されていましたビックリマーク
経糸は染め分け、緯糸の色を替えて腰替わりとし綾織で竹に雀の丸紋が織りだされています。
肩裾は紫根染め白地との対比が美しい、熨斗目の小袖です。

信長から謙信に贈られたと伝わる「赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套」は写真のみ展示。


唐織の掛け襟がついた小袖も興味深く鑑賞しました。(現存最古の唐織とキャプションにあり)

直江兼続の愛の前立てのある甲冑「小札浅葱糸威二枚胴具足」をはじめ、
鎧甲冑の展示はとても充実していました。印伝や箔押し、鎧縅の紐などガン見目

戦国武将の美意識の高さ、もっと堪能したい~:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
上杉神社の所蔵品目、半端じゃございません。。。

「紅地雪持柳桐文平絹胴服」

「紺地鐙繋矢車文鎧下着」

「金銀襴緞子等縫合胴服」「金茶練緯地扇面花卉流水模様描絵小袖」
これらは展示されていませんでしたが、いつかみたいものです。


米沢城趾は松が岬公園となっており、お堀の周りは桜の樹で囲まれていました。
桜の頃は奇麗でしょうね。


上杉家御廟所

御廟所は米沢城から少し離れたところにあります。

謙信の霊廟を中心として歴代の上杉家当主の霊廟が並んでいます。

2代景勝から8代重定までは火葬され社造り

9代治憲(鷹山)から12代斉定までは土葬され宝形造りとなっています。

樹齢400年以上の杉の樹に囲まれ、張りつめたような空気感のある厳かなところでした。
ちなみに上杉家17代当主は宇宙工学者の上杉邦憲氏。


謙信が崇拝し日々祈ったといわれる泥足毘沙門天尊像と上杉家歴代の御位牌は
御廟所近くの法音寺にあります。


この日のランチは米沢牛のよし亭。
1919年(大正8年)に建てられた趣きある商家造りの建物は文化庁の有形文化財建造物
に指定されています。

津の国屋吉貞(よしてい)という屋号の織元だったのだそう

珍しい三階建ての土蔵。
3という数字は嫌われるそうで、地下室があり実は4層になっているのだとか。

米沢牛をいただきました割り箸



米沢の旅レポ、つづきます(^-^)/

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