2014年の重陽の節句は10月2日となります。

昨晩、重陽の節句行事でつくった菊被綿を菊に被せておいたもので顔を拭ってみました(〃∇〃) 
若返りなるか…?  しかし、季節の変わり目だからか体調悪くバタンキューです汗


重陽の節句行事での高倉流宗会頭でいらっしゃる仙石宗久先生のお話のつづき

童女の正装である汗衫(かざみ)装束と総角(みずら)についてのお話φ(.. )

女性の通過儀礼で男児の元服に相当するのが、女児の裳着(もぎ)。
正装である十二単(五衣唐衣裳)にの裳をつけます。

成人前の童女は裳を纏うことはできませんので、この十二単にかわる晴れ着として発達したのが汗衫です。元来は汗取りとして着用されたことが汗衫の由来。

濃色(紫)の長袴(張袴)に白の表袴(うえのはかま)を重ねます。
これは他の装束には見られない特徴のひとつひらめき電球
きもの文化検定を受けられる方は、抑えておきましょう。
こういった独自の特徴があるものは問題としてつくりやすいです。
勉強をするときは自分でも問題をつくってみるのが効果的。私大の受験対策と同じです。


単(ひとえ)、衵(あこめ)、打衣(うちぎぬ)、と着装していきます。

一番上に汗衫の袍、袍には垂領(たりくび)と盤領(あげくび)の二形式があります。
こちらは盤領の袍。さらに石帯または当帯でとめます。

汗衫の袍は十二単(五衣唐衣裳)の裳のように長いもので長袴よりもさらに後に引いています。


髪型は総角(みずら)
紅の布地に転生をあらわす蝶と鳥文様、紫と白の段染めの紐をつかいます。


汗衫は殿上にあがる童女の晴れの装束でしたが、一方で宿直装束となって簡略化した構成のものもあります。

現在は葵祭の馬に乗った騎女の装束としてみることができます。


江戸時代の染織史を学ぶと必ずでてくる、江戸時代のファッションリーダーともいえる、二代将軍徳川秀忠と江の娘の東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)が後水尾天皇のもとへ入内するときに、和子のために汗衫と十二単が同時に誂えられたという資料が残っています。

装束は平安期だけのものと思われがちですが、時代とともに変遷しつつ、現在まで残っているものもあり、皇室行事や神事で知ることができます。この辺りも調べたすと、際限なく楽しいですね♪



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