富岡製糸場 ~建物と歴史~/ 染織文化講座 富岡製糸場産地研修と草木染実習 その2 のつづき

さあ、いよいよ繰糸場ですヾ(@°▽°@)ノ

横から見た外観。看板には「最新型自動繰糸機10セット設備」とあります。

外側は発掘調査中となっていました。

繰糸場内へ。
入口はレトロな空間へ誘ってくれるかのようですが…

天井はトラス構造といわれる三角形を基本形とした柱のない大空間に立ち並ぶ繰糸機。

操業を停止した1987年(昭和62年)2月26日の状態がそのまま残されています。

これらの繰糸機は「プリンス製」
プリンスとは日産プリンスのプリンスのことですが、もとは中島飛行機という飛行機製造会社です。
戦後、飛行機の生産が中止されたことで自動車産業となり、その中のひとつがプリンス自動車
となり後に日産自動車に吸収されます。

プリンス自動車は自動車生産と並ぶ日本の柱となるような機械開発として、1952年(昭和27年)
に自動繰糸機を工業化、さらに1957年(昭和32年)に農林省蚕糸試験場考案の
「繊度感知器」の工業化に成功します。
これによって定繊度式繊度感知方式が採用され生糸生産の自動化が普及することになりました。

トヨタは自動織機を発明した豊田佐吉が源流で、織機から自動車へという流れですが、
日産(プリンス自動車)は自動車から繰糸機を誕生させます。←ここポイントひらめき電球

「繊度感知器」
2枚のガラス板の間に目的の隙間をつくりそこへ生糸を透します。
糸が細くなり摩擦抵抗が少なくなるとそれを感知して新たな繭が継ぎ足されます。

これは27デニールを目標として繰糸している指示

「鼓車」糸の通り道をつくる車のこと。

「集緒機」
煮て柔らかくなった繭から取り出された糸はこの穴を通って撚りが掛けられます。
この穴を通るときに大きな節があるとここで詰まって巻き取りを停止させます。


今年は富岡製糸場が世界遺産に認定され、岡谷蚕糸博物館(シルクファクト岡谷)が
オープンするなど、日本の近代化を担った「生糸」に注目が集まっています。

1872年(明治5年)の富岡製糸場創業時に導入された300釜のフランス式繰糸機

これは現在の富岡製糸場にはなく、岡谷蚕糸博物館に残されています。こちら↓


富岡製糸場はフランス式繰糸機を導入していましたが、後にイタリア式繰糸機になりました。


それはなぜか?
フランス式とイタリア式の大きな違いは糸の撚り掛けです。糸に取って撚りは重要!
生糸づくりは鍋に入った煮た繭から数本の糸を引き出して束ね(集緒)、
それをセリシンで粘着させ撚りをかけ1本の糸にします。

フランス式は共撚り式といわれ、集緒した2筋の糸を互いに絡ませて糸の張り力を均衡させ
抱き合わせるように繰糸する方法。
イタリア式(イタリー式)はケンネル式といわれ、数本引き出した繭糸を1つ穴の集緒器を透して
数本をあわせて1筋の糸にし、その糸を鼓車を通過させて抱き合わせます。

共撚り式は2本の糸の張り力が均衡でないと切れてしまう、操作が難しい、生産性が悪い。
ケンネル式は抱合に優れ生産性が高いという利点がありました。

煮繰兼業か分業か、揚返しがあるかないかの違いもあり、
フランス式かイタリア式かという論争は70年つづいたそうです。


明治から大正にかけて流行ったといわれる工場歌の「富岡節」
~♪ 箒(ほうき)静かに索緒(くちたて)しゃんせ、繭は柔肌、絹一重、
わたしゃ17、花なら蕾、手荒なさるなまだ未通女(おぼこ)~♪
煮た繭は索緒箒によって糸口が取り出されますが、このことを歌ってます。


開国後、生糸の輸出は欧米列強と肩を並べるための外貨習得の手段であり、
そのために明治政府によってこの富岡製糸場はつくられました。
そして蓄えた富によって日本は富国強兵への道を歩むことになります。

富岡製糸場は日本の近代化への足跡
莫大な費用を投資し15000坪もの広大な敷地と明治期の建物、操業停止時のままの
繰糸機を保存した片倉工業に敬意を表したいと思います。


ボランティアガイドの方のお話も楽しかったです♪
富岡製糸場ではガイドツアーがありますので、申し込まれることをおススメします。


繰糸機につきましては、大日本蚕糸会の武井先生のお話、岡谷蚕糸博物館、
日本製糸技術経営指導協会、東京農工大学の資料を参考にさせていただきました。

ある方々から「朝香フィルター」といわれておりますが…、
あくまでも朝香沙都子の私見で、きもの愛好家にもわかりやすいようにまとめています。

岡谷近代化産業遺跡群、岡谷蚕糸博物館レポートも今月中には、何とか…(^_^;) 


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