東京国立博物館法隆寺宝物館にて開催中の
「甦った飛鳥•奈良 染織の美 ~初公開の法隆寺裂~ 展 」(~9月15日まで)へサーチ


東京国立博物館法隆寺宝物館は1878年(明治11年)に法隆寺から皇室へ献上され、
戦後に国へ移管された300件あまりの宝物を収蔵、展示しています。
広い東京国立博物館の中ではひっそりしたところにあり、昔は週1日のみの公開の穴場でした。
新しくなった宝物館も穏やかで静寂を感じられる空間だわ~と思ったら、谷口吉生先生に
よる建築。なるほど…。
谷口吉生先生の奥様は、元LVMHウォッチ・ジュエリージャパン取締役でもある谷口久美さん。
今はオペラ界で活躍されているファッション界の才媛でいらっしゃいます。


世界最古の伝来の染織品は、日本の上代裂(古代裂)の法隆寺裂といわれています。
法隆寺裂は7世紀後半から8世紀前半のものが大半(その後のものもあり)、法隆寺裂と
上代裂の双璧とされる正倉院裂は8世紀中期以降のものなので、法隆寺裂は正倉院裂
よりも約120年前のものとなります。悠久の昔の100年は同じように捉えがちなのですが、
100年は実は長いです。

2000年の時を経てきたものとの出会い。


天寿国繡帳◇絹製 平織、羅、刺繍。622年(推古天皇30年)
聖徳太子の薨去を悼んで妻の橘大郎女が発願しつくらせたという現存する最古の
繡仏であり刺繍。天寿国は聖徳太子が往生した阿弥陀仏の住む西方浄土の世界のこと。
この眼で見ることができて感動~\(゜□゜)/
左上の亀は甲羅と足?雲気と蓮華文様はしっかりと残っていてよくわかります。

その隣に展示されていたのは…ん? 鎌倉時代?
天寿国繡帳がつくられたのは622年といわれますが、その後は所在不明となっていて、
1274年(文永11年)中宮寺の中興の祖といわれる信如という尼僧が夢のお告げによって
法隆寺の蔵から見つけ出したと伝わっているのだそう。←教えていただきました!
飛鳥時代のもののほうが糸の撚りが強く中心部まで染められていたことにより
保存状態がいいのだそうです。


赤地広東裂◇絹製 経絣。飛鳥~奈良時代(7~8世紀)
経絣は法隆寺の幡や褥に見られますが正倉院ではみられない。経絣は前漢時代のもので、
唐の時代に緯錦が完成し織られるようになると経錦は織られなくなったともいわれます。
経錦は文様を織りだすための色糸の整経が困難であるというお話は、染織文化講座で
龍村美術織物社長の龍村旻先生によるお話でもありました。講座記録はこちら☆


赤地七曜紋絞纈平絹幡足◇絹製 奈良時代(8世紀)
退色しないこの赤色!


連珠円文綴織◇絹製 綴織。飛鳥~奈良時代(7~8世紀)
裂地の端をみると綴であることがわかります。


金地竜蓮華文綴織◇絹製 綴織。飛鳥時代(7世紀)
地の部分は和紙に金箔を貼った平金糸の箔糸だったが、ほとんど残っていない。


茶地花卉鳥文摺絵平絹◇絹製 平絹、摺絵。奈良時代(8世紀)
木版に墨で摺だしたものが今もクッキリ残っている。正倉院に所蔵されている
法隆寺裂のものの断片と合わせると、向かい合う鳥と草花があるのがわかるようです。


赤地ほら羅◇絹製 ほら羅。飛鳥時代(7~8世紀)
経糸を捩った捩り織りでさらに透き模様がある染織史上、重要な裂。


綾織の地紋もクッキリわかります。平織との違いをチラッと説明すると、
経糸と緯糸を1本づつ交互に組み合わせて(交差させて)織るのが平織。
綾織は経糸が緯糸3本をまたぐ、緯糸1本下を通って、緯糸3本をまたぐ、といった織り方。
糸の交差点が斜めに走ります。平織よりも伸縮性がありしなやかに織りあがるのが特徴。

青緑地綾•紫地綾縫い合わせ◇絹製。飛鳥~奈良時代(7~8世紀)


淡縹地七曜文入亀甲繋文綾◇絹製。飛鳥~奈良時代(7~8世紀)


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この日は「甦った飛鳥•奈良 染織の美 ~初公開の法隆寺裂~ 展 」のギャラリートークが
ありました。講師は研究員の三田覚之先生。


法隆寺裂と正倉院裂は年代が一部年代が重なっていることと、皇室から法隆寺裂が
献納された時に東京国立博物館がなかったため、正倉院に仮置きされることになり、
その後、博物館が完成し移送される時に、染織品が納められた唐櫃の一部を正倉院の
もとと間違えて運んでしまったことがあり、混同されることとなってしまった。
近年の研究により、染織品の技法と文様の違いから両者の判別が可能となったのだそう。

淡茶地白虎文描絵綾天蓋垂飾◇絹製 平絹浮文綾、描絵。飛鳥時代(7世紀)
こちらの裂についての考察のお話が主となりました。

これは現存する日本最古の絹本の絵画。

生地は綾織。糸の交差点が斜めに走っています。

復元のときに、ポツンと離れた箇所にある位置はなぜわかったのか?
以前のもの(右)は、胴にくっつけていたが…。

裂地を外し裏からみると、平地浮文綾の織で亀甲繋文であったことがわかり、
それによって離れた部分の正確な位置が判明したとのこと。なるほど!

龍のようにも見えるが、奈良薬師寺の台座にある白虎からイメージするとこんな感じに
なるのだそう。

垂飾とは、天蓋の周囲についている垂飾り(ペナントのようなもの)として用いられたもので
蛇舌ともいわれる。時代が下がるにつれて鋭角に変化。

正倉院御物と混同されてしまった法隆寺裂の中に、セットと思われるものが残っているのだそう。


白虎の姿は高松塚古墳やキトラ古墳との近似性とそれよりも古い様式であること、
描いた画師は黄書画師、高麗画師が想定できる、などのお話もありました。
1点に絞って詳細にご説明くださったのが、とても良かった!
他の裂についても機会があったらぜひお聞きしたいものです。

裂地は展示することによっての劣化があるため、次に公開となるのは5年後。
悠久の流れに今も残る、糸と色と織を堪能できる貴重な機会です。


※撮影及び掲載の許可をいただいております。

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