「前田家伝来 ~夏衣裳と調度展~」at 成巽閣 / 2014年夏 金沢の旅 その4 のつづき(^-^)/

今回の金沢の旅は雨がよく降りました雨
日本海側の鈍色の空が加賀友禅の美しさを生み出したともいわれますが、金沢の街には
雨が似合います。この時は雨傘を持ち合わせていませんでしたので歩き回ることができず汗
タクシーで金沢城下をグルッと散策することにしました。

加賀百万石の居城、金沢城ヽ(゚◇゚ )ノ こちらは兼六園側の石川門です。
一般的な観光コースでは石川門から入りますが、城郭巡りオタクにいわせると、
石川門から入るのは邪道で大手門から入れ!とのこと。←ものすごく遠回り

織田信長を悩ませたという加賀一向一揆。ここは浄土真宗の尾山御坊があったところで、
元は石垣が張り巡らされた要塞のような本願寺の寺院であったといわれています。
信長によって一揆が制圧され、信長配下の佐久間盛政が築城したのが、金沢城の成り立ち。
賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政は豊臣秀吉によって滅ぼされ、秀吉は前田利家に加賀の地を
与えます。1583年(天正11年)前田家初代利家が入城し、廃藩置県に至るまで14代に
渡って前田家がこの地を治めました。

金沢城は典型的な平山城で櫓を多様した造りとなっています。
1602年(慶長7年)に落雷で天守閣が焼失、その後は二の丸御殿と本丸櫓の城となりました。
1759年(宝暦9年)に大火に見舞われ金沢城は全焼してしまいます。その後は実用性を
重んじた造りとなったのだそうです。
廃藩置県後は陸軍省のものとなり軍司令部が置かれ、戦後は金沢大学のキャンパスとして
つかわれました。
登城が通学だったころの金沢大学、日本文化に傾倒している今なら通いたいところです。
1995年(平成7年)金沢大学が移転し、翌年から金沢城趾公園となります。
現在も復元整備事業が行われ、川北門、いもり堀が復元され、石川門も改修されました。
う~ん、時間があったらじっくりと見学したかった!


おお~っ\(゜□゜)/と歓声をあげたくなる、金沢城の本丸南面の高石垣

復元された、いもり堀

日本の城郭巡りは心が躍ります♪
刀剣好きで、クレー射撃が趣味なので、武器好きともいわれますが、武器や要塞の形には
一切の無駄がなく洗練されたもので、そこには何とも形容し難い美があるのです:*:・( ̄∀ ̄)・:*:

水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園のひとつ兼六園。
江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残していることから国の
特別名勝に指定されています。
加賀前田藩の庭園として造られたことに端を発し、5代藩主綱紀から始まり
13代斉泰の頃にほぼ現在の形になったといわれています。
兼六園と命名したのは寛政の改革を行った松平定信です。

雪から樹木を守るための雪吊りは11月1日から行なわれます。

こちらは↑↓2010年にきもの学会の加賀友禅研修旅行 で金沢を訪れたときの写真。


尾山神社です。ここもゆっくり見たかった!
前田家初代藩主の利家と正室の芳春院(松)が祀られています。

1599年(慶長4年)前田利家が薨御すると2代利長は利家を祭神とし祀ろうとしますが、
徳川幕府を憚って公然とはできなかったといいます。
そこで守護神としていた物部神社と八幡神を勧請し、卯辰八幡社を創建し合祀しました。
徳川の治世が終わり廃藩置県後、旧加賀藩士は前田家300年の仁政と利家の功績を
残すため、尾山神社を建立します。

何とも不思議な神門…、和漢洋の三洋式の折衷したつくりです。
オランダ人のホルトマンによる設計で、1875年(明治8年)に造立。
日本で初の避雷針がつけられました。

前田家の家紋は梅鉢紋として知られていますが、正式には剣梅輪内。
菅原氏の流れを汲むことから加賀前田家は梅を家紋としたとされています。

神門のぎやまんのステンドグラスは夜にはライトアップされます。
それはそれは美しいのだそう。
その光はかつては日本海を航行する船からも見えたのだそうです。

旧金谷御殿から移築された入母屋造屋根の拝殿
欄間には欅の一枚板の梅の花の透かし彫りがあります。

尾山神社の神苑は古代舞楽の楽器を模した地泉回遊式庭園といわれているそうです。
残念ながら今回は時間がなく見ることができませんでしたが、次回はゆっくりと拝観したい。

ランチは、金沢名物のハントンライスナイフとフォーク
オムライスに海老フライ、ケチャップとタルタルソース


金沢の旅レポ、まだまだつづきます(^-^)/

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