金沢そして能登へ 染織文化講座 金沢編 & 加賀友禅産地研修 / 2014年夏 金沢の旅 その1  のつづき

シャリ感のある肌触り、通気性が良く軽く、捺染でつくられる絣が特徴の能登上布。


その起源は古く、何と神話の時代(約2000年前)のことだとか。
崇神天皇の皇女の渟名城入媛命(ヌナキイリヒメノミコト)が中能登に滞在したときに、
この地の野生の苧麻を紡いで糸をつくり機織りを伝えたことがはじまり…、と伝えられています。

平安時代に能登の麻糸が税として納められた記録がありますが、発展を遂げたのは江戸時代中頃。
中能登は苧麻の生産地であり近江上布の原料としての糸づくりを主としていました。
1814年(文化11年)に近江から職人を招き織りの技術を導入し、1818年(文政元年)に
はじめて能登の名前がついた能登縮がつくられます。縮の絣染め付けの技法もこの頃。

その後、能登では麻織物が盛んに織られるようになり、明治初期には麻織物の生産は全国一に。
能登上布といわれるようになったのは1907年(明治40年)に皇室への献上品となったころから。
上布とは上等な麻織物のことをいいます。
大正末期には越後上布の緯糸に色を染め分けた絣糸をつかう緯総絣の技術を取り入れて
多色づかいの大柄の絣などもつくられていたそうで、かつては京都でも夏のきものといえば
能登上布という、能登上布隆盛の時代があったといいます。
ですが残念なことに、かつては140件あったという織元も今は山崎麻織物1件のみです。

金沢から七尾線で約1時間、能登上布の産地である羽咋市へ。
金丸駅まで山崎隆先生が迎えにきてくださいました。

こちらが唯一の能登上布の工房となった山崎麻織物工房さん。

四代目の山崎隆先生とお母さまの山崎幸子先生。


貴重な昔の見本帳や裂地をみせていただきました。

まるで小千谷縮?のような能登上布です。
能登上布といえば、男性ものの蚊絣や亀甲の印象が強いですが、かつてはこういった
ポップな緯絣もつくられていたことがわかりました。
昭和30年~50年ぐらいは色鮮やかな緯総絣の紬がどこの産地でもつくられていたようです。

工房によって、女物は谷さん、男物は山田さんと服部さん、緯絣は横町さん…と、
つくられるものが決まっていたそうです。山崎麻織物工房では両方をつくっていたとのこと。

宮古上布に似ているものも多かったようですが、昔はわざと宮古上布の蠟引きに
似せるよう熱で照りをつけるような加工をしたものもあったのだそう。

能登上布は「絣が細かく精密になるほど高価」と書かれていることが多いのですが、
櫛押し捺染の絣糸づくりは、絣の部分が大きいほど絣の木型が必要となるので、
木型の生産がされていない現在では大柄の絣のほうが貴重なのだそうです。


能登上布らしい蚊絣は経糸も絣糸の経緯絣。

蚊絣も亀甲絣も経と緯に寸部の狂いも許されない精密なものです。


能登上布は昭和になってから、ラミーといわれる紡績糸がつかわれています。
ラミーの糸の利点は糸の太さが均一であり手績みの苧麻よりも丈夫であること。
八重山上布なども経糸はラミー、緯糸は手績みの苧麻というものが多いです。
能登上布につかわれるラミーの糸は蒟蒻糊で固めることによって、毛羽立ちがなく
しなやかに織りあがり、尚且つシャリ感があるのが特徴。


絣の技法には手括り、締機、板締め、捺染とありますが、能登上布の最大の特徴は、
絣をつくる「櫛押し捺染」。それに必要となるのが木型です。
これは今ではつかわれていないという板締めの板。銀杏の樹に彫られています。
残念ながら今この技術を受け継いでいる方はいらっしゃらないのだそう。


櫛押し捺染の板巻き後に櫛押しの目印とするためにつける木型。
こちらも銀杏の樹でつくられています。

捺染とは絣を織りだすために糸に染料を摺り染め付けていく方法のこと。
櫛押し捺染では絣の大きさの巾の分だけ木型が必要となります。
小柄は経の木型は7~8本ですが、柄が大柄になると経の木型が115本必要となるのだそう。

この型を4反分の経糸を張った板の端の紙テープに擦りつけることによって、
櫛押しの目印とします。定規のような役割といったらいいのでしょうか?


さあいよいよ、工房へ。つづきます^^/

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