衣紋道高倉流による、祐宮(後の明治天皇)の御深曽木の儀の再現が、4月23日に
明治神宮参集殿にて行なわれました。


以下、高倉流宗会頭の仙石宗久先生の解説よりまとめますφ(.. )


御深曽木の儀とは? 七五三のルーツとなった儀式のひとつであり、
4~5歳になって伸びた髪をもう一度切りそろえる儀式のこと。曽木は削ぎの当て字。
現在の皇室では5歳の祝いだけが残り、男女共に御深曽木の儀だけが行なわれます。
男性皇族はこの日にはじめて袴を身につけることになるので、同時に着袴の儀となります。

1860年(万延元年)閏3月16日未の刻より、祐宮(後の明治天皇)の御深曽木の儀が
執り行われました。これは予定よりも2年遅れてのこと。予定された年に泉涌寺で火災
があり、祐宮は8歳で御深曽木の儀を迎えました。

北野恒富◇「万延元年閏3月16日御深曽木」 明治神宮外苑聖徳記念絵画館蔵 


御深曽木の儀は京都御所御三間にて行なわれます。

役送(儀式の重要なお道具を運ぶ役)
四位右近衛中将櫛筍隆韻は黒の衣冠、五位侍従中山忠光(祐宮の叔父)は赤の衣冠。
議奏(天皇に近侍し儀式を監督する人)
参議侍従飛鳥井政典は黒の衣冠、権中納言裏松高光は紅梅の直衣(正月15日まで
着る特殊な直衣)、権大納言中山忠能(祐宮の母の中山慶子の父)は夏の直衣、
権大納言徳大寺公純と厳中納言久我建通は冠直衣。
武家伝奏(武家の奏請を朝廷に伝える人。儀式の場がどうであったか報告する関白につぐ職)
厳中納言坊城俊克は黒の衣冠、権大納言広橋光成は冠直衣。

参議侍従飛鳥井政典が左大臣を呼びにいきます。手には中啓という扇を持っています。

左大臣一条忠香は冠直衣。北面に座します。
「おーしー」という仙石先生の声(「おなーりー」のようなもので、天皇のお出ましの声です)
天皇付女官の新掌侍(しんのないしのじょう)豊国が守り刀をもって現れます。

孝明天皇はお引き直衣、天皇の裾をお直しするのは、天皇付女官新大典侍勧修寺徳子。
女児は天皇からのつかいの役をします。

役送の二人が碁盤を運び、吉方(巽の方角)に向けて置きます。

御髪を削ぐお道具も運ばれます。

祐宮は前張の袴の半尻姿で、左手に小松と山橘、右手に横目扇をもって現れます。
※ちなみに、皇女は逆で、左手に横目扇、右手に小松と山橘

碁盤の上には鴨川で拾った青い石が二つあり、これを左右の足の爪先で踏んで碁盤の上に。

大尚侍中山績子、宰相典侍庭田嗣子(皇女和宮に仕え江戸城に入ったあの庭田)、
少将掌侍今城重子

祐宮を碁盤の上に。碁盤の高さは髪をお削ぎするのに大人の目の高さになる手頃。

左大臣一条忠香による、髪削ぎが行なわれます。
ゆするという整髪料をつかって、上から下へ髪を上げ左右中と削いでいきます。
削がれた髪は少将掌侍へ渡され三帖に分けて奉書紙に包まれます。

祐宮は吉方に向かって碁盤から降ります。
「えいっ」と飛び降りる印象が強いですが…。
う…、タイミングが早くて、シャッターチャンスを逃しました(T_T)

そして、退出となります。

武家伝奏、議奏、役送も退出します。


祐宮は髪を鬢の緒で括って現れます。

鬢親である左大臣一条忠香も呼ばれて参進し祐宮と対座します。

手長は命婦押小路と命婦鴨脚(いちょう)。
手長とは宮中や貴人の家の酒宴で膳を隣の次の間まで運び取り次ぎをする役のこと。

一献の儀、二献の膳とある。昆布、干鮑、饅頭など。

大尚侍中山績子より左大臣一条忠香に謝辞があります。
中山績子は祐宮の大叔母にあたる。

祐宮の半尻を下げる。

男子皇族は落滝津文様の振袖の上に前張の大口の袴。

落滝津は千載和歌集にある「落滝津やそ宇治川のはやき瀬に岩越す波は千代の敷かも」
という御歌からきています。

これから祐宮は孝明天皇のお住まいの常御殿の一間に向かい対面します。
天皇陛下にお会いするために、装束は織から縫の装束へと着替えるのです。

衣紋道高倉流仙石宗久宗会頭と衣紋道高倉流東京道場の皆さま。


仙石先生のお話を聞き逃すまいとメモを取り、撮影をし…。
碁盤から飛び降りるところのシャッターチャンスを逃したのが残念(x_x;)

平安絵巻のような世界ですが、こういった儀式は現在の皇室にも受け継がれています。
とても貴重なものを見せていただきました。ありがとうございました!

※撮影及び「きものカンタービレ♪」への掲載の許可を主催者さまよりいただいております。

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