髙島屋 MD本部 呉服DV部長 池田喜政さんのお話
きもの カンタービレ♪

●「上品會」を染織文化講座のテーマとした理由●
近年急速に低迷化する呉服業界の中で上品會は10年前の規模に回復していること。
ここに業界の突破口となるものがあるから。
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●髙島屋の歴史●
831年(天保2年)に飯田新七が創業した「たかしまや」は当初は古着木綿商。蛤御門の変にて店舗を焼失したことをきっかけに古着屋を廃業して木綿呉服商となります。
1877年(明治10年)第6回京都博覧会が最初の出展でこれによって全国に髙島屋の名が知れ渡ります。パリ万博に出品された友禅ビロード「波に千鳥」の大壁掛けがサラ•ベルナールによって買い取られたことでパリの新聞で掲載されさらに有名に。1910年(明治43年)にはロンドンで開催された日英博覧会にビロード友禅「雪月花」と竹内栖鳳の「アレ夕立に」が出品され大評判となります。竹内栖鳳ら京都画壇の若手画家はは髙島屋で下絵を描いており当時は出勤簿も髙島屋にありました。
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●「百選会」と「上品會」●
髙島屋は松坂屋、白木屋、三越、大丸などと比べると後発だっただけに、新しい感覚のデザインを打出していて、「ウルトラモダン」「アバンギャルド」とも評されます。

百選会は1913年(大正2年)にはじまり戦争で一時中断した後、1994年(平成6年)までつづいていました。与謝野晶子ら文化人を顧問として、毎回流行色とテーマと標準図案を提示し、全国の産地から染織品の新柄を募集して、髙島屋が審査し、展示即売する会。
上品會は1936年(昭和11年)に染織美の極みを追求することを目的としてはじまります。同人と呼ばれる老舗呉服業者が、織、染、繍、絞、絣の染織五芸を競い合う会。当初「染の千總」「帯の龍村」「織の矢代仁」の3社が出品していましたが、戦争を挟んで一時中断。1953年の再開後、同人も増えて、前述3社の他に、岩田、秋場、川島織物、大羊居、千切屋の8社が参加しています。

上品會を上品たらしめているのは、入選作すべてを高島屋が買い取る制度によるもの。それによって、クオリティの高いものがつくられつづけています。上品會の「上品」とは上質なだけではなく、官の等級や種類の上下を表すのだそう。
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●上品會の今●
東日本大震災後に開催された第60回上品會では「日本の歌、その心をかたちに」がテーマ。和歌「嵐吹く 三室の山のもみじ葉は 竜田の川の錦なりけり 」や歌謡曲「翼をください」「いい日旅立ち」など歌に込められた日本人の思いを染織で表す画期的なものだったのだそう。
美術部と連動した作品づくりにも意欲的で、日本美術院同院の手塚雄二画伯にも下絵を依頼。その際に
手塚先生に「なぜ自分なのか?」と問われると池田さんは「すぐに着物にできると思った」と答えてしまったそうで…、手塚先生は「池田さん、それは違うよ。僕が着物の真似をしているんだよ」とおっしゃり、実現にいたったのだそうです。手塚雄二先生のお父様は友禅師だったのだそう。

大羊居の灯り文様の訪問着、龍村美術織物の威毛錦(おどしげにしき)の袋帯、千總の熨斗目文様の振袖。
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「」今は着物が売れないと言われているが、それは違う。着る機会がない、着られないから衰退したのでもない。本当に良いものであれば必ず着物は売れる。本当に良いものが無いから、着物を着ない、買わないのが真理です。良いものをつくれば、必ずお客様は買ってくださいます。」
上質のきものを知り尽くした流通の方のお話は、きもの愛好家にとってもこれからのきもの業界のあり方の一端の光明を見るお話でした。