丸山伸彦先生による「友禅染と絵師友禅」についてのお話。
きもの カンタービレ♪

友禅染は糯米をつかって糸目糊置きをし多彩な色挿しによって日本画のように文様表現できる技法のこと。
友禅染めの技法について、真糊をつかった糸目糊置とゴム糊をつかった糸目糊置きの違いについての説明。
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友禅染が元禄期に名前の由来となった宮崎友禅斎が創案したものとされる説があるのは、周知の事だが、現存する史料全てをみても宮崎友禅斎が友禅の技法に関与したということは書かれていない。あくまでも宮崎友禅斎はあくまでも扇面絵師であり下絵もしくは意匠原案の製作をしたデザイナーである。

友禅扇に関する資料、友禅と小袖意匠との関連を示す資料、友禅風の模様に関する資料、友禅の描絵に関する資料、友禅の技法に関する資料、友禅染色工房に関する資料、江戸中期以降の友禅に関する資料をつきあわせてのお話がありました。
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なぜ友禅染の創始者が宮崎友禅斎といわれるようになったのか?
昭和30年に発刊された広辞苑で、友禅の創始者が宮崎友禅斎になっていること、高校教科書や観光案内に書かれていることから定着してしまった。

1688年(貞享5年)に発刊された友禅の名を冠した「友禅ひいなかた」に、染色の技法に関して細かく書かれていますが、その著者は五条堀川の染工である友尽斎清親(ゆうじんさいきよちか)であり、宮崎友禅斎とは別人である。

意匠のデザインとして、扇面のデザインは手で持てる小さい面積だが、きものは大きい面積。扇面絵師のような小さい面をデザインしている人が、大きい面積のきものにデザインしたことから、散らし文様や尽くし文様が生れた。
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友禅斎は扇面絵師として大スターであり、友禅という文字が入ると京都の人にはうける傾向があった。この流れは後々までつづき、17世紀には流行の概念が生まれる。世界的にみても上流階級での流行というものはあっても、不特定多数のモードがあったのは日本のみ。明治になると型友禅の流行があり、再び宮崎友禅斎が脚光を浴びスターに祭り上げた風潮があるのだとか。

友禅の実像については、江戸後期の日本画家の岸駒の出世譚に酷似しているといお話も。岸駒は岸派の祖であり、そこからは千總の友禅の下絵を描いた岸竹堂も排出します。友禅をスターとして祭り上げた背景も日本の染織史を学ぶ上では重要なポイントになるという興味深いお話でした。