染織文化講座 第3回
当初は丸山伸彦先生による「辻が花」のお話と竹田耕三先生による「有松絞りの歴史と技法」
のお話ということで、絞りについて学ぶ日となっておりましたが、都合により、
原田弘子先生による「藍と絞」のお話に変更となりました。

会場には絞りの技法の見本が展示されていました。
染める前のものと染められた後のハンカチ大の染め見本です。
きもの カンタービレ♪

第1時限目は、丸山伸彦先生による絞りの変遷から定義が曖昧とされる「辻が花」について

絞りの技法は、生地に圧力をかけて防染するという最も簡便なもので世界中で自然発生的
に起こったものと考えられています。
奈良時代には「天平の三纈」といわれる染色技法が大陸から伝わったとされていますが、
後世の学者がつけたという異説もあるのだそう。
三纈は、糸で縛る絞りの纐纈(こうけち)、板締め絞りの夾纈(きょうけち)、臈纈染が臈纈(ろうけち)
臈纈は平安時代に遣唐使が廃止されたことにより蜜蝋の輸入がなくなり途絶えます。

現在の絞り染めは纐纈にあたります。
庶民に藍で浸染し強度をつけるなど(その他の効能あり)、実用的なものとして用いられました。
上流階級のものは織であり、文様染めであらわすようになるのは中世室町時代に入ってから。

「辻が花」の定義が曖昧とされるのは、文献上の辻が花と遺品の辻が花の違い。
丸山先生によると、辻が花は第一類~第三類に分けられるとのこと。

第一類
文献では15世紀初頭「三十二番職人歌合」に「つじがはな」とあるので言葉としては成立
していた。室町幕府の故実書には「武家の女子、若衆には用いても良いが、成人男子は紅いらず
ものならば」という成人男子に用いるのは憚られるという記述がある。
1603年「日葡辞書」には一般性のある言葉として「つじがはな」があり帷子の染めものとある。
この頃は絞りならではの滲みを伴うものであり文様を絞りで表そうとしたもの。
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第二類
縫い締め絞りを輪郭線としてつかい墨の描絵、刺繍、摺箔で肩裾形式の中に埋め尽くした
文様染め。武将の胴服や小袖に用いられていた。生地は練緯地(経糸は生糸、緯糸は練糸)。
完形のものはほとんど残されていないが、武将の肖像画、長谷川等伯画「武田信玄像」←
(畠山義継であることが明らかになっている)や、小袖屏風、幡として残されている。
久保田一竹は金通し地に友禅描きした生地を立体的にみせたもので、影響は受けているが
辻が花ではない。
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第三類
秀吉や家康が特別につくらせたもの。下賜された遺品が残されている。
絞りの特製である滲みを最小限に抑えて排除した高度な技術がつかわれているのが特徴。
絞りだけで鋭角なところまで文様をきっちりあらわす究極の技術がつかわれた絞りの最高峰。
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絵画的な文様を絞りでらわす技術は江戸初期に頂点を極めますが、需要にあわせて拡大
していけず、絞りでは単純作業を繰り返す絞り染めの鹿の子絞りが隆盛を極めることになります。

昭和30年代の鹿の子絞りの貴重な映像もみせていただきました。
伊勢丹呉服部が後世への伝承の為に技法を撮影しDVD化したもの。
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文献上には、「辻が花が絞りである」という言葉はなく、江戸時代には辻が花という言葉が
わからなくなり「幻の染め」とされますが、明治になり登場します。
型友禅の普及のころ、具象的な絞りを辻が花としてある呉服商が売り出した?
史料的根拠はとくに明らかにされていないとのこと。
明治26年の婦人画報には「辻が花」がでてくるのだそうです。