お待たせしましたm(_ _ )m
2012年葵祭のレポをお届けしていきます
行列は雨天順延になってしまいましたが、雨の中で行われた宮内庁掌典職の勅使による
社頭の儀に参列、そして次の日は近衛使代(このえづかいだい)による社頭の儀に参列する
という貴重な経験もいたしました。
楼門の中で行われる社頭の儀には、勅使さまによる御祭文奏上の儀、馬寮使が馬を牽き舞殿
を三周する牽馬の儀、そして舞人による東遊があります。
葵祭前日に京都入り
京都御室の広大な山林の中にある料亭、松山閣松山へ
贅沢なことに、こちらで懐石料理をいただいてから、衣紋道高倉流宗会頭でいらっしゃる
仙石宗久先生による葵祭のセミナーがあるのです 予習も大事です
雄大な北山の山並みを背負った千五百坪のお庭の新緑が美しい
端午の節句の室礼が迎えてくれます。
お食事をいただいたお部屋。
初夏ならではの味覚、走りの鮎が美味しかったです
汲み上げ湯葉も絶品
いよいよ衣紋道高倉流宗会頭でいらっしゃる仙石宗久先生による葵祭の講義
まずは葵祭の起源と概要のお話から。
飛鳥時代の欽明天皇のとき(「賀茂縁起」によると567年)に風雨がはげしく、
五穀が実らなかったので、卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ、
賀茂の神々の祟りであるとでたのだそう。そこで4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、
人は猪頭(いのがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をすると、風雨はおさまり、
五穀が実って民は安泰になったということからきています。
平安遷都によって賀茂社は山城の国の守護神となり、嵯峨天皇の第八皇女の有智子内親王
(うちこないしんのう)が810年に賀茂の斎王として奉仕ししてから、葵祭は日本で最古で最大
の祭りとなったのだそうです。
その後、応仁の乱(1467年)によって約200年もの間中絶します。
1694年(元禄7年)の徳川時代、東山天皇と後水尾天皇の皇子で有職故実の神様といわれる
零元法王の御世になって再興されます。
徳川の家紋は三つ葉葵ですが、徳川氏(もと松平氏)は賀茂神社の氏子であり浅からぬ関係が
あったのだそうです。
そして、1871年(明治4年)~1884年(明治17年)までも中絶。明治天皇の命によって明治17年に
葵祭(下鴨神社・上賀茂神社)、春日祭(春日大社)、岩清水祭(岩清水八幡宮)の三祭が厳粛に
三勅祭の祭儀として執行されることとなり現在にいたっています。
源氏物語「葵」の巻にでてくる、葵の上と六条御息所の車争いの話は、光源氏は葵祭の斎院
(桐壺帝の女三の宮)が祭りの前に賀茂川にて禊(みそぎ)をする御禊(ごけい)の儀に奉仕する役で、
葵祭の当日は紫の上と見物しています。これ勘違いしている人多いですよね(゚ー゚;
この御禊(ごけい)は現在では上賀茂神社御手洗川と下鴨神社の御手洗池にて隔年交代で
行われています。2012年は5月4日に上賀茂神社にて斎行されました。
そして、次の日に参列する社頭の儀についても詳細にご説明くださいました。
ここでしっかりと予習しておいたおかげで、当日は撮影する余裕もあり、じっくりと拝見する
ことができましたv(^-^)v予習していなかったらメモを取るだけで精一杯だったかも。
葵祭レポは雨天順延になった葵祭の中で行われた勅使さまによる社頭の儀から
詳細にあげていきます
※仙石先生のお話といただいたレジュメをもとに、自分なりに調べたことをつけ加えて
簡略にまとめておりますφ(.. )
『きものカンタービレ♪』への掲載の許可もいただいております。
京都でのお食事や買い物、訪問させていただいた室町の染匠のレポは追ってあげていきます。
2012年葵祭のレポをお届けしていきます
行列は雨天順延になってしまいましたが、雨の中で行われた宮内庁掌典職の勅使による
社頭の儀に参列、そして次の日は近衛使代(このえづかいだい)による社頭の儀に参列する
という貴重な経験もいたしました。
楼門の中で行われる社頭の儀には、勅使さまによる御祭文奏上の儀、馬寮使が馬を牽き舞殿
を三周する牽馬の儀、そして舞人による東遊があります。
葵祭前日に京都入り
京都御室の広大な山林の中にある料亭、松山閣松山へ
贅沢なことに、こちらで懐石料理をいただいてから、衣紋道高倉流宗会頭でいらっしゃる
仙石宗久先生による葵祭のセミナーがあるのです 予習も大事です
雄大な北山の山並みを背負った千五百坪のお庭の新緑が美しい
端午の節句の室礼が迎えてくれます。
お食事をいただいたお部屋。
初夏ならではの味覚、走りの鮎が美味しかったです
汲み上げ湯葉も絶品
いよいよ衣紋道高倉流宗会頭でいらっしゃる仙石宗久先生による葵祭の講義
まずは葵祭の起源と概要のお話から。
飛鳥時代の欽明天皇のとき(「賀茂縁起」によると567年)に風雨がはげしく、
五穀が実らなかったので、卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ、
賀茂の神々の祟りであるとでたのだそう。そこで4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、
人は猪頭(いのがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をすると、風雨はおさまり、
五穀が実って民は安泰になったということからきています。
平安遷都によって賀茂社は山城の国の守護神となり、嵯峨天皇の第八皇女の有智子内親王
(うちこないしんのう)が810年に賀茂の斎王として奉仕ししてから、葵祭は日本で最古で最大
の祭りとなったのだそうです。
その後、応仁の乱(1467年)によって約200年もの間中絶します。
1694年(元禄7年)の徳川時代、東山天皇と後水尾天皇の皇子で有職故実の神様といわれる
零元法王の御世になって再興されます。
徳川の家紋は三つ葉葵ですが、徳川氏(もと松平氏)は賀茂神社の氏子であり浅からぬ関係が
あったのだそうです。
そして、1871年(明治4年)~1884年(明治17年)までも中絶。明治天皇の命によって明治17年に
葵祭(下鴨神社・上賀茂神社)、春日祭(春日大社)、岩清水祭(岩清水八幡宮)の三祭が厳粛に
三勅祭の祭儀として執行されることとなり現在にいたっています。
源氏物語「葵」の巻にでてくる、葵の上と六条御息所の車争いの話は、光源氏は葵祭の斎院
(桐壺帝の女三の宮)が祭りの前に賀茂川にて禊(みそぎ)をする御禊(ごけい)の儀に奉仕する役で、
葵祭の当日は紫の上と見物しています。これ勘違いしている人多いですよね(゚ー゚;
この御禊(ごけい)は現在では上賀茂神社御手洗川と下鴨神社の御手洗池にて隔年交代で
行われています。2012年は5月4日に上賀茂神社にて斎行されました。
そして、次の日に参列する社頭の儀についても詳細にご説明くださいました。
ここでしっかりと予習しておいたおかげで、当日は撮影する余裕もあり、じっくりと拝見する
ことができましたv(^-^)v予習していなかったらメモを取るだけで精一杯だったかも。
葵祭レポは雨天順延になった葵祭の中で行われた勅使さまによる社頭の儀から
詳細にあげていきます
※仙石先生のお話といただいたレジュメをもとに、自分なりに調べたことをつけ加えて
簡略にまとめておりますφ(.. )
『きものカンタービレ♪』への掲載の許可もいただいております。
京都でのお食事や買い物、訪問させていただいた室町の染匠のレポは追ってあげていきます。