三井記念美術館の土曜講座にいく予定だったのですが、体調イマイチで断念することに(ノ_-。)
なので近くの千切屋さんで行われている志ま亀さんのお誂え会も今回は見送りました。スミマセン
きもの文化講座(3月11日)
◎武蔵大学教授の丸山伸彦先生による、江戸のきもののお話
丸山伸彦先生と 丸山先生に服飾変遷の三原則を学んだことが、きものの歴史を理解する
糸口になった気がしております(o^-')b
友禅染は、糯米をつかって糸目糊置きをし多彩な色挿しによって日本画のように文様表現できる
技法ですが、その名前の由来となった宮崎友禅斎が元禄期に創案したものといわれています…が、
宮崎友禅斎はあくまでも扇面絵師であり下絵もしくは意匠原案の製作をしたデザイナーだというお話。
江戸時代初期、徳川家康の「銀杏葉雪輪文様同腹」に糸目糊と色挿しの用例が
4代藩主伊達綱村(1659~1719)の産着には友禅染の技法がしっかりとされている
なので、元禄以前に友禅染の技法は確立していたとのこと。
では、どうして友禅染の創始者が宮崎友禅斎といわれるようになったのか?
昭和30年に発刊された広辞苑で、友禅の創始者が宮崎友禅斎になっていることや、教科書や
観光案内に書かれていることから定着してしまったとのこと。
貞享5年(1688年)に発刊された友禅の名を冠した「友禅ひいなかた」では、染色の技法に関して
細かく書かれていますが、それは著者の友尽斎清親(ゆうじんさいきよちか)が五条堀川の
染工だったからで、友禅はあくまでもデザイナーなのだそう。
●友禅扇に関する資料、友禅と小袖意匠との関連を示す資料、友禅風の模様に関する資料、
友禅の描絵に関する資料、友禅の技法に関する資料、友禅染色工房に関する資料、
江戸中期以降の友禅に関する資料をつきあわせてのお話がございました。
☆デザインとして、扇面のデザインは手で持てる小さい面積ですが、きものは大きい面積。
扇面絵師のような小さい面をデザインしている人が、大きい面積のきものにデザインしたこと
から、散らし文様や尽くし文様が生れた!←なるほど
友禅斎は扇面絵師として大スターであり、友禅という文字が入ると京都の人にはうける傾向があった
のだそう。この流れは後々までつづき、17世紀前までは流行という感覚がなかったけれど、以降は
流行が加速していきます。世界的にみても上流階級での流行というものはあっても、庶民のモードが
あったのは江戸のみで日本は早熟だったというお話も。
ひとつのデザインを供給するのに、確固たる絵師として知られていた友禅斎の名が一人歩きして
いったということでしょうか。ブランドの流行のようなものなんでしょうね。
明治になると型友禅の流行があり、再び宮崎友禅斎が脚光を浴びスターに祭り上げた風潮が
あるのだとか。
友禅の名が残る扇子。こちらが本業。
扇面絵師として時代の寵児であった宮崎友禅斎の存在が、武士でなく町人を主体とする
小袖装飾の流行を推進していったことになります。
1時間半があっという間でした。丸山先生のお話はギッシリ詰まっていてとてもとても私の記事では
おさまらないので、ザックリとだけご紹介。
また先生の講義を聴くことができる機会があるといいなあ。。。
※講義中の撮影及び『きものカンタービレ♪』への掲載を主催者、講師の先生より許可いただいております。
何度かご紹介しておりますが、江戸の小袖の変遷をわかりやすく知るのには、丸山先生のこの本が
おススメです。
Amazonから購入できます↓
日本ビジュアル生活史 江戸のきものと衣生活
なので近くの千切屋さんで行われている志ま亀さんのお誂え会も今回は見送りました。スミマセン
きもの文化講座(3月11日)
◎武蔵大学教授の丸山伸彦先生による、江戸のきもののお話
丸山伸彦先生と 丸山先生に服飾変遷の三原則を学んだことが、きものの歴史を理解する
糸口になった気がしております(o^-')b
友禅染は、糯米をつかって糸目糊置きをし多彩な色挿しによって日本画のように文様表現できる
技法ですが、その名前の由来となった宮崎友禅斎が元禄期に創案したものといわれています…が、
宮崎友禅斎はあくまでも扇面絵師であり下絵もしくは意匠原案の製作をしたデザイナーだというお話。
江戸時代初期、徳川家康の「銀杏葉雪輪文様同腹」に糸目糊と色挿しの用例が
4代藩主伊達綱村(1659~1719)の産着には友禅染の技法がしっかりとされている
なので、元禄以前に友禅染の技法は確立していたとのこと。
では、どうして友禅染の創始者が宮崎友禅斎といわれるようになったのか?
昭和30年に発刊された広辞苑で、友禅の創始者が宮崎友禅斎になっていることや、教科書や
観光案内に書かれていることから定着してしまったとのこと。
貞享5年(1688年)に発刊された友禅の名を冠した「友禅ひいなかた」では、染色の技法に関して
細かく書かれていますが、それは著者の友尽斎清親(ゆうじんさいきよちか)が五条堀川の
染工だったからで、友禅はあくまでもデザイナーなのだそう。
●友禅扇に関する資料、友禅と小袖意匠との関連を示す資料、友禅風の模様に関する資料、
友禅の描絵に関する資料、友禅の技法に関する資料、友禅染色工房に関する資料、
江戸中期以降の友禅に関する資料をつきあわせてのお話がございました。
☆デザインとして、扇面のデザインは手で持てる小さい面積ですが、きものは大きい面積。
扇面絵師のような小さい面をデザインしている人が、大きい面積のきものにデザインしたこと
から、散らし文様や尽くし文様が生れた!←なるほど
友禅斎は扇面絵師として大スターであり、友禅という文字が入ると京都の人にはうける傾向があった
のだそう。この流れは後々までつづき、17世紀前までは流行という感覚がなかったけれど、以降は
流行が加速していきます。世界的にみても上流階級での流行というものはあっても、庶民のモードが
あったのは江戸のみで日本は早熟だったというお話も。
ひとつのデザインを供給するのに、確固たる絵師として知られていた友禅斎の名が一人歩きして
いったということでしょうか。ブランドの流行のようなものなんでしょうね。
明治になると型友禅の流行があり、再び宮崎友禅斎が脚光を浴びスターに祭り上げた風潮が
あるのだとか。
友禅の名が残る扇子。こちらが本業。
扇面絵師として時代の寵児であった宮崎友禅斎の存在が、武士でなく町人を主体とする
小袖装飾の流行を推進していったことになります。
1時間半があっという間でした。丸山先生のお話はギッシリ詰まっていてとてもとても私の記事では
おさまらないので、ザックリとだけご紹介。
また先生の講義を聴くことができる機会があるといいなあ。。。
※講義中の撮影及び『きものカンタービレ♪』への掲載を主催者、講師の先生より許可いただいております。
何度かご紹介しておりますが、江戸の小袖の変遷をわかりやすく知るのには、丸山先生のこの本が
おススメです。
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