今回から新たなシリ-ズ「廷臣二十二卿列参事件」
これらに関与した人々を紹介いたします。
孝明天皇は朝廷と幕府がともに協力しあうべきであるとする公武合体論の立場から、深く幕府を信頼し大政を委任していたが、これに不満を持つ尊皇攘夷派公家の跳梁跋扈に悩まされていた。やがて尊攘派と天皇の対立は顕在化し、八月十八日の政変などを経て尊攘派の公家は朝廷から追放されていった。
しかし、慶応2年(1866年)の長州征討が幕府軍の敗北に終わったのをきっかけに、尊攘派公家を朝廷に復帰させるべきであるという声が大きくなっていった。こうした中で、追放されている公家の復帰・朝政の改革など国事につき建言するため、大原重徳を中心とした公家22名が朝廷に押しかける騒擾事件が発生する。しかし、天皇はこれを退け、逆に22名に対して謹慎等の処分を下し、変わらぬ信頼を幕府に寄せていることを示した。
なお、この事件の背後には岩倉村に蟄居中の岩倉具視の策謀が有ったとされ、これは後に岩倉による天皇暗殺疑惑へと繋がる伏線をなしている。
二十二卿列参事件これに関与した方々
今回の注目はココ
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明治元年(1868年)、藩主・島津忠義から人馬奉行に抜擢され、戊辰戦争においては1月の鳥羽・伏見の戦いで小荷駄隊を率いるなど活躍した。その後、山陰道鎮撫総督の西園寺公望に従い小荷駄差引として山陰地方へ。
明治18年(1885年)12月22日、第5代警視総監に就任
長男:彌太郎 - 第8代日本銀行総裁。大日本皇道立教会第二代副会頭
岳父に公爵大山巌、侯爵四条隆謌。
孫:三島通陽 - 第4代ボーイスカウト日本連盟総長。
孫:三島通隆 - プリンストン大学卒、大倉商事役員、アドレソグラフ社長、日本模型航空連盟第2代会長。 孫:寿子 - 阪谷希一(満州国総務庁次長。父親は元大蔵大臣で子爵の阪谷芳郎。母方の祖父は渋沢栄一)
夫人
孫:梅子 - 土方与志(宮内大臣・宮中顧問官・枢密顧問官・國學院大學学長)夫人
次男:彌二 - 豊澤家養子、警察部長を歴任(妻・愛は永井岩之丞の娘で、姉・夏子の孫は三島由紀夫)
長女:園子 - 秋月左都夫(大日本皇道立教会第三代副会頭・読売新聞社社長)夫人
次女:峰子 - 伯爵牧野伸顕夫人(牧野の長女・雪子は吉田茂に嫁いでおり、従って麻生太郎は玄孫にあたる)
三女:竹子 - 日高栄三郎(大日本水産会理事、宮崎製氷取締役、日本酒造監査役)夫人
四女:鶴子 - 伯爵日野資秀(東宮侍従)夫人
五女:千代子 - 西村寅三(初代内務省警保局長・西村捨三の子)夫人
六女:繁子 - 中村進午(日露戦争開戦を主張した学者の一人)夫人
四男:弥吉- 村井吉兵衛の次女・ヒサの婿養子となるも、東京帝国大学在学中に死没、これにより復籍。
五男:弥彦 - 1912年開催のストックホルムオリンピックに日本初のオリンピック代表選手として参加。
岳父に鍋島直柔。
その他の子孫
曾孫:阪谷芳直(日本の銀行家・エコノミスト・思想史家・翻訳家。)
玄孫:三島通義(日本のプロレス団体相談役、元ニッポン放送のラジオディレクター、報道記者。)、
麻生太郎(自由民主党最高顧問、志公会会長。中曽根康弘世界平和研究所会長。)、
寛仁親王妃信子(麻生セメント会長・麻生太賀吉の三女、母は内閣総理大臣・吉田茂の三女・和子。)、
武見敬三(元厚生労働大臣・WHO(世界保健機関)の親善大使)、
来孫:堀内詔子(元東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当大臣、ワクチン接種推進担当大臣)
北小路資武・子爵→
東洋興業や日本堅紙塗料など数々の企業で取締役を務めた
妻:柳原白蓮 燁子(父:伯爵 柳原前光)
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「白蓮事件」として知られる。
・・・そのうち、燁子から龍介に「今の境遇に耐えられない、何度自殺しようと思ったか知れない。今の状態から一刻も早く私を救い出して欲しい。」といった趣旨の手紙が届くようになる。1921年(大正10年)8月、京都での逢瀬で燁子は龍介の子をみごもった。姦通罪のあった男尊女卑のこの時代に、道ならぬ恋は命がけであった。燁子は伊藤家を出る覚悟を決めて、秋の上京の際に家出を決行する準備のために、伝右衛門のお気に入りで博多花柳界で名高い芸妓であった舟子を、大金の4千円で身請けして、9月29日に廃業届が出された。おゆうと同じように、小間使いとして呼び寄せて、自分の身代わりの人身御供として舟子を伝右衛門の妾にしたのである。龍介は新人会時代の仲間である朝日新聞記者の早川二郎や赤松克麿らに相談して、燁子出奔の計画を練り、決行した。世に言う白蓮事件である。燁子36歳、龍介29歳であった。
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孫文の盟友の宮崎滔天の長男。母は前田案山子の三女・槌子。有夫であった歌人・柳原白蓮と駆け落ちした白蓮事件で知られる。竜介とも。
宮崎家に出入りする滔天の盟友・孫文や黄興とは子供の頃から親しみ、時にはスパイに狙われる孫文を槌子が家から逃れさせ、高校生の龍介が付き添った事もあった。
1920年(大正9年)1月、帝国大学学生のまま吉野が主宰する黎明会の機関誌であった『解放』(大鐙閣)の主筆となった龍介は、たまたま九州出身であった事から、同誌の執筆者である柳原白蓮(伊藤燁子)との打ち合わせのため、別府の伊藤家別荘を訪れる。
その後打ち合わせの中で燁子と恋仲となると、新人会では伯爵令嬢でブルジョワ夫人である燁子との関係を裏切り行為と見なし、1921年(大正10年)1月、龍介は『解放』編集者から解任され、4月には新人会を除名された。皮肉にも黄興旧宅の提供など、宮崎家の支援を受けていた新人会は龍介の除名によってそれを失って衰退への道を歩むことになる。 その後、白蓮事件を経て燁子と夫婦となる。
1937年(昭和12年)7月24日午前11時日本郵船、近衛文麿首相の密使として、蔣介石との和平協議のために中国を訪問しようとするが、これに反対する陸軍は憲兵隊を用いて神戸港での乗船間際に、乗船名簿には高田市三とあるのに対し、大型トランクにはR・Mとのイニシャルがあったことから宮﨑龍介を検挙した。この経緯については諸説があり詳細は不明のままで、後に東方会東京府連会長を務め南進論によるアジア解放を進める南鵬会を結成して会長となる。これが、後に大東亜戦争(太平洋戦争)に賛同したとする根拠とされた。戦争で燁子との間に生まれた長男の香織が早稲田大学政経学部在学中に学徒出陣し、終戦の4日前に所属していた陸軍・串木野市の基地に爆撃を受けて戦死している。龍介は本籍地の荒尾に香織の遺骨を受け取りに行った。
1937年(昭和12年)7月7日に起きた盧溝橋事件で日中関係が緊迫していた7月19日、龍介は父滔天と同じく孫文の盟友であった秋山定輔から電話で呼び出される。鞠町の秋山の自宅で向かい合うと、「すぐに南京に行って蔣介石を連れて来い」と命令される。何のためにか問うと、秋山は「判りきっているじゃないか、日本外道の懺悔だ。これを蔣君に聞いてもらうんだ。蔣君は聞く耳を持っているはずだ」と述べた。秋山は近衛文麿首相から、中国との和平工作の特使として滔天の長男である龍介を派遣するよう依頼されていた。龍介は抗日軍総司令の蔣介石を敵国に連れてくるなど、とても無理だと断ると、「汪兆銘ではどうだ」と迫られ、早速に向かうよう急き立てられる。目的を果たせるかどうかの判断もつかないまま、龍介は中華民国大使館に蔣介石への問い合わせを依頼する。
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戊辰戦争では18歳で東海道鎮撫副総督となり、甲府鎮撫使を務める。
明治天皇の側室で大正天皇の生母である妹や、歌人の次女を持つ。
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明治・大正・昭和時代の福岡県筑豊の実業家・炭鉱主。伝右エ門とも。 2番目の妻・燁子(「あきこ」柳原白蓮)との離婚劇・白蓮事件でその名を知られる。
武家伝奏を長期間務め、政治に深く関与した。
内大臣
娘の婧子が光格天皇の典侍となり、寛政12年(1800年)に後の仁孝天皇を産んだため、経逸は天皇の外戚となった。
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京都生まれで、入江為福の養子となる。明治8年(1875年)に家督を継承し、明治17年(1884年)に子爵に叙せられる。明治30年(1897年)、貴族院議員に就任し、大正3年(1914年)まで務める。昭和天皇の東宮侍従長を経て、昭和元年(1926年)に侍従次長、翌昭和2年(1927年)に皇太后宮大夫に就任。大正4年(1915年)からは御歌所長を兼任し、『明治天皇御集』や『昭憲皇太后御集』の編集事業を完成させた。
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明治から昭和期にかけて活躍した実業家、政治家で、華族の一員。第四高等学校を卒業後、1910年(明治43年)に京都帝国大学法科大学を卒業し、司法省に入省。輸出水産や明治漁業、カルピス製造の監査役を歴任するなど、実業界でも活動した。1914年(大正3年)、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属し活動を続け、1947年(昭和22年)まで5期にわたり在任した。廣田内閣・司法参与官や司法制度調査委員会委員なども務め、司法制度の発展に貢献した。
藤原不比等・右大臣→
藤原房前・贈左大臣正一位→
藤原真楯・大納言→
●藤原内麻呂・贈太政大臣従一位→
藤原真夏・参議→
藤原浜雄・民部少輔→
藤原家宗・参議→
藤原弘蔭・大学頭→
藤原繁時・大学頭→
藤原輔道・豊前守→
藤原有国・参議→
藤原資業・式部大輔 →
藤原実綱・式部大輔→
藤原有信・右中弁→
藤原実光・権中納言→
藤原資長・民部卿→
藤原兼光・権中納言→
日野資実・中納言→
日野家光・権中納言→
日野資宣・権中納言→
日野俊光・権大納言→
日野資名・権大納言→
日野時光・権大納言→
裏松資康・権大納言→
浦松重光・贈左大臣→
浦松義資・権中納言→
裏松重政・左少弁→
日野勝光・左大臣 →
烏丸冬光・権中納言→
烏丸光康・准大臣→
烏丸光宣・准大臣→
烏丸光広・権大納言→
烏丸光賢・権中納言→
烏丸資慶・権大納言 →
烏丸光雄・権大納言→
烏丸宣定・左中弁 →
烏丸光栄・内大臣→
日野資枝・権大納言→
北小路祥光・参議→
北小路師光・右京権大夫→
北小路説光・兵部大輔→
◎北小路随光・子爵→
北小路資武・子爵→
北小路功光・子爵→
北小路矗
北小路祥光・参議→
北小路師光・右京権大夫→
北小路説光・兵部大輔→
◎北小路随光・子爵→
北小路資武・子爵→
北小路功光・子爵→
北小路矗
ここの部分を更に深堀りすると・・・
北小路祥光・参議→
妻:(父:石清水八幡宮前検校大僧正正清)
1792-1843 師光
妻:上田多喜子1870-1822(父:上田安虎)
娘(勘解由長官 清岡長親室)
娘(権中納言 藤谷為脩室)
北小路師光・右京権大夫→
妻:日野与志(父:准大臣 日野資愛)
1812-1856 説光
-1859 賀(権中納言 山科言成室)
-1834 貞
登喜
北小路説光・兵部大輔→
妻:
1832-1916 随光
◎北小路随光・子爵→

幕末の公卿であり、明治から大正にかけて活躍した華族。天保7年(1836年)に叙爵し、以降順調に昇進して万延2年(1861年)に従三位に叙され公卿となる。慶応2年(1866年)には廷臣二十二卿列参事件に関与し、差控の処分を受けたが、慶応3年(1867年)に赦免される。明治元年(1869年)には神祇官出仕を命じられ、伊勢神宮大宮司に任じられた。明治17年(1884年)に子爵となり、晩年は司法省で勤務した。大正5年(1916年)に84歳で薨去。
妻:猪熊久子1838-1915(父:猪熊慶歓)
1878-1942 資武
1863- (養子)和麿(父:権大納言 柳原光愛)
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江戸時代末期から明治時代にかけての公卿であり、柳原家の第21代当主として活躍した。正二位、権大納言・議奏の地位に任じられた。安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加し、幕末には公武合体派として活動した。文久3年(1863年)には橋本実梁と共に攘夷成就を目指し、勅使として伊勢神宮に派遣された。山陵修補御用掛としても任じられ、慶応元年(1865年)には崇光天皇陵に勅使として派遣されるなど、朝廷のために尽力した。
1863-1903 (養子)日野資秀(日野家へ)
山城国京都で生まれ、明治期に活躍した宮内官であり政治家。1875年(明治8年)に北小路随光の養子となり、光典と改名。その後、日野資貴の相続人となり、日野資秀として活動を続ける。1884年(明治17年)に伯爵を叙爵される。1888年(明治21年)から1893年までイギリスに留学し、帰国後は東宮職御用掛や東宮侍従を務めた。1900年(明治33年)には貴族院伯爵議員に選出され、死去するまで在任。墓所は青山霊園にある。
北小路資武・子爵→
明治から昭和にかけて活躍した日本の華族であり、実業家でもあった。初めは京都御所で殿掌として勤務し、その後は実業界へ進出。東洋興業や日本堅紙塗料など数々の企業で取締役を務めた。離婚後も再婚し家庭を持つ一方で、事業活動に専念。晩年は詐欺事件に関与したとして恐喝容疑で検挙されるなど波乱もあったが、実業での多岐にわたる活動で存在感を示した。1942年に没した。
妻:柳原白蓮 燁子(父:伯爵 柳原前光)
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大正から昭和にかけて活躍した歌人。幼少期から複雑な家庭環境で育ち、二度の不幸な結婚を経験。特に炭鉱王・伊藤伝右衛門との結婚は「白蓮事件」として知られる。後に宮崎龍介と駆け落ちし、宮崎家での生活を支えるため執筆活動を行う。戦時中に息子を失うが、その悲しみを平和運動に転じ、全国で「悲母の会」を結成。晩年は視力を失うが、穏やかな生活を送りながら歌を詠み続けた。1967年に81歳で死去。
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幕末から明治時代にかけて活躍した公家で伯爵。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では18歳で東海道鎮撫副総督となり、甲府鎮撫使を務める。明治維新後に外務省に入省し、明治4年(1871年)には日清修好条規を締結するため清へ渡った。西南戦争時には勅使として鹿児島を訪問。元老院議官や駐露公使を歴任し、皇室典範の制定に関与した。44歳で死去。家督は長男が継ぎ、明治天皇の側室で大正天皇の生母である妹や、歌人の次女を持つ。
1901-1989 功光
妻:中園滝子(父:中園実受)
1909- 資俊(妻:金子多喜1916-)
1911- 徳子(夫:千与太郎)
1915-1937 かね子
北小路功光・子爵→
昭和時代の華族であり、歌人としても知られる。東京で生まれ、両親の離婚後は祖母に育てられる。同志社中学から学習院を経て東京帝国大学文学部を中退。1942年(昭和17年)に子爵を襲爵し、オーストラリア・シドニー大学で講師を務めた。小説執筆にも挑戦し、「ミクロコスモス」が文藝賞の佳作に入選。歌集『説庵歌帖』では、母・柳原白蓮への愛憎がテーマとなっている。母との関係は複雑で、4度の結婚と離婚を経験した。著書に『香道への招待』がある。
妻:小山嘉勢子1902-(父:小山秋作・・・陸軍大佐)
1924- 矗
妻:檜垣益代1913-(父:檜垣兼三郎)
妻:大垣美枝子1922-(父:大垣研)
妻:寺田成子1926-(父:寺田長吉)
北小路矗
妻:細谷君子1926-(父:細谷朝次)
1952- 良子(夫:近藤実)
1956- 子
北小路随光の親戚・縁者~
江戸時代中期から後期にかけて活躍した公卿で、官位は従一位、准大臣を務めた。尊号事件では議奏としての責任を問われ、寛政5年(1793年)に参内を20日間停止された。享和3年(1803年)から文化10年(1813年)まで武家伝奏を長期間務め、政治に深く関与した。法号は勁松院であり、日記「勁槐記」を残し、当時の記録を後世に伝えている。
江戸時代中期の公卿であり歌人。正二位・内大臣に累進し、烏丸家で内大臣に至った唯一の人物。和歌は霊元天皇、中院通躬、武者小路実陰に師事し、門下には有栖川宮職仁親王や桜町天皇がいた。著書に「栄葉和歌集」や「詠歌覚悟」があり、古今伝授を通じて和歌の発展に寄与した。延享5年(1748年)に60歳で死去し、家督は弟の子である光胤が継いだ。
江戸時代の公家である勧修寺経逸は、名家に属する勧修寺家の23代当主で、正二位権大納言の地位にあった。宝暦8年(1758年)に叙爵し、翌年に元服。安永8年(1779年)には参議に任じられ、翌年に従三位に昇進した。寛政元年(1789年)には権大納言、正二位となる。娘の婧子が光格天皇の典侍となり、寛政12年(1800年)に後の仁孝天皇を産んだため、経逸は天皇の外戚となった。また、多くの有力公卿と縁組みし、外孫には岩倉具視がいる。後に本座の宣下を受けた。
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明治元年(1868年)、藩主・島津忠義から人馬奉行に抜擢され、戊辰戦争においては1月の鳥羽・伏見の戦いで小荷駄隊を率いるなど活躍した。その後、山陰道鎮撫総督の西園寺公望に従い小荷駄差引として山陰地方へ。
明治18年(1885年)12月22日、第5代警視総監に就任
長男:彌太郎 - 第8代日本銀行総裁。大日本皇道立教会第二代副会頭
岳父に公爵大山巌、侯爵四条隆謌。
孫:三島通陽 - 第4代ボーイスカウト日本連盟総長。
孫:三島通隆 - プリンストン大学卒、大倉商事役員、アドレソグラフ社長、日本模型航空連盟第2代会長。 孫:寿子 - 阪谷希一(満州国総務庁次長。父親は元大蔵大臣で子爵の阪谷芳郎。母方の祖父は渋沢栄一)
夫人
孫:梅子 - 土方与志(宮内大臣・宮中顧問官・枢密顧問官・國學院大學学長)夫人
次男:彌二 - 豊澤家養子、警察部長を歴任(妻・愛は永井岩之丞の娘で、姉・夏子の孫は三島由紀夫)
長女:園子 - 秋月左都夫(大日本皇道立教会第三代副会頭・読売新聞社社長)夫人
次女:峰子 - 伯爵牧野伸顕夫人(牧野の長女・雪子は吉田茂に嫁いでおり、従って麻生太郎は玄孫にあたる)
三女:竹子 - 日高栄三郎(大日本水産会理事、宮崎製氷取締役、日本酒造監査役)夫人
四女:鶴子 - 伯爵日野資秀(東宮侍従)夫人
五女:千代子 - 西村寅三(初代内務省警保局長・西村捨三の子)夫人
六女:繁子 - 中村進午(日露戦争開戦を主張した学者の一人)夫人
四男:弥吉- 村井吉兵衛の次女・ヒサの婿養子となるも、東京帝国大学在学中に死没、これにより復籍。
五男:弥彦 - 1912年開催のストックホルムオリンピックに日本初のオリンピック代表選手として参加。
岳父に鍋島直柔。
その他の子孫
曾孫:阪谷芳直(日本の銀行家・エコノミスト・思想史家・翻訳家。)
玄孫:三島通義(日本のプロレス団体相談役、元ニッポン放送のラジオディレクター、報道記者。)、
麻生太郎(自由民主党最高顧問、志公会会長。中曽根康弘世界平和研究所会長。)、
寛仁親王妃信子(麻生セメント会長・麻生太賀吉の三女、母は内閣総理大臣・吉田茂の三女・和子。)、
武見敬三(元厚生労働大臣・WHO(世界保健機関)の親善大使)、
来孫:堀内詔子(元東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当大臣、ワクチン接種推進担当大臣)
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日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。
東京に生まれ、東京帝国大学を卒業後、水戸高等学校や府立高等学校で教鞭を執る。1949年に旧・東京都立大学の教授に就任し、後に桐朋学園大学や立正大学でも教授を務める。トーマス・マンなどの翻訳を通じてドイツ文学の紹介に尽力し、日本における独文学の発展に寄与した。伯爵家の日野家に一時期は婿入りし、日野捷郎として活動するも、後に復姓し再び実吉姓を名乗る。府立高等学校の校歌作成にも関与し、教育者としても文化的な貢献を果たした。教え子には徳永康元などがいる。

江戸時代後期の大名であり、明治初期の政治家であった。宇和島藩主として藩政改革を進め、木蝋の専売化や石炭の埋蔵調査を行った。幕末には「四賢侯」として幕政改革に関与し、安政の大獄で隠居謹慎を命じられるも、後に復帰。維新後は新政府の議定や民部卿を務め、日清修好条規の調印に寄与した。晩年は中央政界を退きつつも、外交の場で重要な役割を果たした。
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1876年(明治9年)生まれの柳原義光は、日本の伯爵で貴族院議員を務めた人物。慶應義塾で学び、18歳で伯爵家を継いだ。明治天皇に拝謁し、正五位に叙される。1904年(明治37年)から貴族院議員となり、日露戦争の功績で勲等を受けた。異母妹の白蓮事件により1922年(大正12年)に一時辞職したが、1925年(大正14年)に復帰し死去まで議員を務めた。晩年は醜聞に見舞われたが、国士気質を持ち、「国家の大事の前に、私事に拘泥すべきではない」との信念を持っていた。義太夫や詩を嗜み、崋山と号した。1946年(昭和21年)に69歳で死去。
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京都生まれで、入江為福の養子となる。明治8年(1875年)に家督を継承し、明治17年(1884年)に子爵に叙せられる。明治30年(1897年)、貴族院議員に就任し、大正3年(1914年)まで務める。昭和天皇の東宮侍従長を経て、昭和元年(1926年)に侍従次長、翌昭和2年(1927年)に皇太后宮大夫に就任。大正4年(1915年)からは御歌所長を兼任し、『明治天皇御集』や『昭憲皇太后御集』の編集事業を完成させた。
明治から昭和にかけて活躍した日本の華族であり、実業家でもあった。初めは京都御所で殿掌として勤務し、その後は実業界へ進出。東洋興業や日本堅紙塗料など数々の企業で取締役を務めた。離婚後も再婚し家庭を持つ一方で、事業活動に専念。晩年は詐欺事件に関与したとして恐喝容疑で検挙されるなど波乱もあったが、実業での多岐にわたる活動で存在感を示した。1942年に没した。
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明治・大正・昭和時代の福岡県筑豊の実業家・炭鉱主。伝右エ門とも。 2番目の妻・燁子(「あきこ」柳原白蓮)との離婚劇・白蓮事件でその名を知られる。
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孫文の盟友の宮崎滔天の長男。母は前田案山子の三女・槌子。有夫であった歌人・柳原白蓮と駆け落ちした白蓮事件で知られる。竜介とも。
宮崎家に出入りする滔天の盟友・孫文や黄興とは子供の頃から親しみ、時にはスパイに狙われる孫文を槌子が家から逃れさせ、高校生の龍介が付き添った事もあった。
1920年(大正9年)1月、帝国大学学生のまま吉野が主宰する黎明会の機関誌であった『解放』(大鐙閣)の主筆となった龍介は、たまたま九州出身であった事から、同誌の執筆者である柳原白蓮(伊藤燁子)との打ち合わせのため、別府の伊藤家別荘を訪れる。
その後打ち合わせの中で燁子と恋仲となると、新人会では伯爵令嬢でブルジョワ夫人である燁子との関係を裏切り行為と見なし、1921年(大正10年)1月、龍介は『解放』編集者から解任され、4月には新人会を除名された。皮肉にも黄興旧宅の提供など、宮崎家の支援を受けていた新人会は龍介の除名によってそれを失って衰退への道を歩むことになる。 その後、白蓮事件を経て燁子と夫婦となる。
1937年(昭和12年)7月24日午前11時日本郵船、近衛文麿首相の密使として、蔣介石との和平協議のために中国を訪問しようとするが、これに反対する陸軍は憲兵隊を用いて神戸港での乗船間際に、乗船名簿には高田市三とあるのに対し、大型トランクにはR・Mとのイニシャルがあったことから宮﨑龍介を検挙した。この経緯については諸説があり詳細は不明のままで、後に東方会東京府連会長を務め南進論によるアジア解放を進める南鵬会を結成して会長となる。これが、後に大東亜戦争(太平洋戦争)に賛同したとする根拠とされた。戦争で燁子との間に生まれた長男の香織が早稲田大学政経学部在学中に学徒出陣し、終戦の4日前に所属していた陸軍・串木野市の基地に爆撃を受けて戦死している。龍介は本籍地の荒尾に香織の遺骨を受け取りに行った。
1937年(昭和12年)7月7日に起きた盧溝橋事件で日中関係が緊迫していた7月19日、龍介は父滔天と同じく孫文の盟友であった秋山定輔から電話で呼び出される。鞠町の秋山の自宅で向かい合うと、「すぐに南京に行って蔣介石を連れて来い」と命令される。何のためにか問うと、秋山は「判りきっているじゃないか、日本外道の懺悔だ。これを蔣君に聞いてもらうんだ。蔣君は聞く耳を持っているはずだ」と述べた。秋山は近衛文麿首相から、中国との和平工作の特使として滔天の長男である龍介を派遣するよう依頼されていた。龍介は抗日軍総司令の蔣介石を敵国に連れてくるなど、とても無理だと断ると、「汪兆銘ではどうだ」と迫られ、早速に向かうよう急き立てられる。目的を果たせるかどうかの判断もつかないまま、龍介は中華民国大使館に蔣介石への問い合わせを依頼する。
明治から昭和にかけて活躍した日本の華族であり、実業家でもあった。初めは京都御所で殿掌として勤務し、その後は実業界へ進出。東洋興業や日本堅紙塗料など数々の企業で取締役を務めた。離婚後も再婚し家庭を持つ一方で、事業活動に専念。晩年は詐欺事件に関与したとして恐喝容疑で検挙されるなど波乱もあったが、実業での多岐にわたる活動で存在感を示した。1942年に没した。
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京都府立京都第一中学校を卒業後、昭和17年(1942年)に海軍兵学校を卒業し、海軍少尉に任官。昭和18年(1943年)には、勲一等旭日桐花大綬章を受章。同年、本人の情願により、臣籍降下して龍田伯爵家を創設。戦後は松下電器産業などに勤務し、「はたらく貴族」として紹介されたこともある。1966年には梨本宮家の養子となり、その祭祀を継承。晩年には複数の団体で名誉総裁を務めたが、トラブルにも巻き込まれた。平成19年(2007年)に死去し、旧宮家としての梨本家は断絶した
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明治から昭和期にかけて活躍した実業家、政治家で、華族の一員。第四高等学校を卒業後、1910年(明治43年)に京都帝国大学法科大学を卒業し、司法省に入省。輸出水産や明治漁業、カルピス製造の監査役を歴任するなど、実業界でも活動した。1914年(大正3年)、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属し活動を続け、1947年(昭和22年)まで5期にわたり在任した。廣田内閣・司法参与官や司法制度調査委員会委員なども務め、司法制度の発展に貢献した。
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山城国京都で生まれた烏丸光亨は、幕末の公家であり、明治期には華族として伯爵に叙される。慶応3年に従五位下に叙され、明治3年には修学中のため辞した。1873年に父の死去により家督を継承し、1884年に伯爵に叙爵。奇抜な行動から「華族中の奇人」と呼ばれる一方で、詩文や書に才能を発揮し、実業界にも進出する。晩年は日本赤十字社病院で肝臓癌により44歳で死去した。
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京都府立京都第一中学校、第三高等学校理科乙類を経て、1940年(昭和15年)に京都帝国大学理学部物理学科に入学。成年を迎え貴族院議員となるが、1942年(昭和17年)に臣籍降下し宇治伯爵家当主となる。同年、海軍技術科士官として採用され、中国大陸で初級士官教育を受ける。戦後は京大理学部物理学教室の研究嘱託に就任。趣味は農耕や園芸、登山、スキー。
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明治から昭和初期にかけて活躍した内務官僚、政治家であり、群馬県知事や貴族院男爵議員を務めた。帝国大学法科大学を卒業後、内務省に入省し、土木局長などを歴任。群馬県知事時代には教育振興に尽力し、勢多農林学校の設立を推進した。宮内省では帝室林野管理局長官や宮中顧問官を務め、1923年(大正12年)に男爵を襲爵。貴族院では公正会に所属し、その在任中に死去した。
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昭和期の政治家で華族である。伯爵の家に生まれ、1924年(大正13年)に子爵を襲爵する。学習院高等科を修了後、1935年(昭和10年)に豊島区役所嘱託となり、その後、関東電気工業や浅野カーリツトで働く。1946年(昭和21年)、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動した。貴族院が廃止される1947年(昭和22年)までその職にあった。