妄想ゴロニャンういるす物語(268)廷臣八十八卿列参事件の末裔 (藤原鎌足~29代)②中山忠能 | WingMakerのブログ

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廷臣八十八卿列参事件 - Wikipedia

 

これに名前が載っている人物達、その末裔たちの紹介です。

 

参考資料はコレです!

 

中山忠親の家系図 | 系譜で辿る日本史

 

中山家(羽林家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

 

廷臣八十八卿列参事件 - Wikipedia

 

これに名前が載っている人物達。

その子孫達は現在どうなっているのか?

 

見ていきましょう。

 

中山忠能の祖先・子孫たち

系統①父方を辿ると・・・
 

藤原鎌足・内臣→

妻:鏡王女?-683

鏡王女 - Wikipedia中臣鎌足の正妻

飛鳥時代の女性で、天智天皇の妃を経て中臣鎌足の正妻となったと伝えられる。『万葉集』には鎌足や天智天皇との歌の応答が収められており、歌人としても知られる。

妻:車持与志古娘

車持君与志古娘(よしこのいらつめ) - 箕輪城と上州戦国史

 

 

藤原不比等・右大臣→

妻:蘇我娼子(父:左大臣 蘇我連子)

蘇我連子 - Wikipedia

飛鳥時代の豪族である蘇我連子は、蘇我倉麻呂の五男として生まれた。冠位は大紫を授かり、斉明天皇や天智天皇の下で大臣を務めたとされる。『日本書紀』にはその名が記され、天智3年(664年)に死去したことが記録されている。具体的な事績は不明だが、彼の子孫が繁栄した背景には、彼が早逝したことで壬申の乱に巻き込まれなかったことが挙げられる。

女:五百重娘(父:内臣 藤原鎌足)

藤原鎌足 - Wikipedia

中臣鎌足として大化元年(645年)の乙巳の変で蘇我入鹿を中大兄皇子らと共に暗殺し、大化の改新を推進した。以後も中大兄皇子に仕え、外交や政務を担い勢力を拡大。天智天皇8年(669年)に重傷を負い、死去直前に内大臣と「藤原」の姓を賜る。死後は藤原氏の始祖とされ、後裔が後の公家・武家社会に広く影響を与えた。

 

妻:賀茂比売女

妻:贈従一位 県犬養橘三千代

県犬養三千代 - Wikipedia

 

藤原房前・贈左大臣正一位→

妻:牟漏女王(父:贈正二位 美努王)

美努王 - Wikipedia

672年の「壬申の乱」では、父・栗隈王のもとへ大友皇子側より出兵を命じる使者が訪れるが、弟・武家王と共に父の警護を果たす。天武天皇10年(681年)天皇の命令を受けて『帝紀』及び上古における事柄の記録・校定に従事した

妻:片野朝臣女

 

藤原真楯・大納言→

妻:(父:安部常丸)

 

藤原内麻呂・贈太政大臣従一位→

妻:百済永継(父:飛鳥部奈止麻呂)

飛鳥部奈止麻呂 - Wikipedia

飛鳥部氏は河内国安宿郡を本拠とするとみられる百済系渡来氏族で、百済の24代王である末多王(東城王)の末裔とする。東大寺写経所経師に、安宿公広成(百済飛鳥戸伎美。河内国安宿郡の人)が見える

 

●妻:坂上登子(父:鎮守府将軍 坂上苅田麻呂)

坂上苅田麻呂 - Wikipedia

坂上苅田麻呂

奈良時代の公卿であり武人である。藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇の命を受け、訓儒麻呂を討ち取る功績を挙げた。この功により、大忌寸の姓を賜り、昇進を果たし、後に従三位まで昇進した。光仁天皇の治世では中衛中将を務め、複数の地方官も兼務した。桓武天皇の即位後は右衛士督に任じられ、延暦4年(785年)には一族の改姓が許され、大宿禰姓を名乗った。享年59で薨去。

 

坂上田村麻呂 - Wikipedia・・・父は坂上苅田麻呂!

坂上田村麻呂

平安時代の武官であり公卿の坂上田村麻呂は、桓武天皇をはじめとする4代の天皇に仕え、征夷大将軍を2度務めたことで知られる。延暦16年(797年)には陸奥・出羽の按察使兼陸奥守、鎮守将軍といった役職を兼ね、東北地方の蝦夷征討にあたった。胆沢城や志波城の造営を指導し、東北地方の平定に貢献。死後、神将や武神として祭られ、平安京の守護神とされた。彼の伝説は後世、多くの物語や信仰の対象となり、広範囲にわたり影響を及ぼした。

 

妻:(父:依当大神)

妻:(父:藤原永手)
藤原永手 - Wikipedia

長男の鳥養が早世したため、藤原北家の長となる。藤原仲麻呂に抜擢され昇進を重ねるが次第に距離を置くようになり、藤原仲麻呂の乱では仲麻呂排斥に動いた。
神護景雲4年(770年)、光仁天皇擁立の功績により正一位に叙せられる。生前に正一位にまで昇った人物は歴史上7人のみ。

 

藤原冬嗣・贈太政大臣正一位→

妻:尚侍従三位 藤原美都子(父:石見守 藤原真作)

藤原真作 - Wikipedia

翌延暦4年(785年)皇后宮大進を務めていた際、赤い雀が皇后の宮殿に飛来して止まるという吉兆があり、他の皇后宮職の諸官とともに昇叙され従五位上となる。

 

妻:(父:安倍雄笠)

安倍男笠 - Wikipedia

平安時代初期の貴族である安部男笠は、延暦17年(798年)に従五位下に叙せられ、翌年には右兵衛佐に任命される。延暦25年(806年)には越後介として地方官に転じ、嵯峨朝では三河守、駿河守、主殿頭などを歴任する。弘仁年間には昇進を重ね、弘仁13年(822年)には従四位上となる。天長3年(826年)に74歳で没する。質素な性格で才学には恵まれなかったが、鷹の調教に優れ、その腕前が桓武天皇に寵愛される要因となった。善悪の評判は特に立たなかったが、内外の官職を歴任した記録が『日本後紀』に残る。

 

 

藤原長良・贈太政大臣正一位→

妻:難波淵子

妻:藤原乙春(父:紀伊守 藤原総継) 

藤原総継 - Wikipedia

平安時代初期の貴族で、美作守を務めた。弘仁2年(811年)に従五位下に叙爵され、中務少輔や相模介を歴任。後に従五位上・紀伊守となるが、任期中に没する。没後、娘の沢子が産んだ時康親王が光孝天皇として即位したため、総継は正一位と太政大臣を追贈される。墓は山城国愛宕郡にあり、守家が設置されている。

 

 

藤原基経・関白→

妻:操子女王(父:常陸太守 人康親王) 

人康親王 - Wikipedia

仁明天皇の第四皇子である人康親王は、承和12年(845年)に元服し、官位は四品・弾正尹に至る。文徳朝では上総太守や常陸太守を歴任し、貞観元年(859年)には病気を理由に出家し法性と号した。出家後は京都山科に山荘を構え隠棲し、山科宮と称される。琵琶の名手としても知られ、座頭や琵琶法師の祖とされた。貞観14年(872年)に42歳で薨去。江戸時代には彼の霊を慰めるため、琵琶法師が集まり演奏を行った。山科区には人康親王に纏わる史跡が残り、山荘跡や墓、供養塔が設けられている。

 

藤原忠平・関白→

妻:源順子(父:光孝天皇?、宇多天皇?)

妻:源昭子(父:正三位右大臣 源能有)

源能有 - Wikipedia文徳天皇の皇子

 

平安時代前期の公卿で、文徳天皇の皇子として臣籍降下し、源姓を賜る。貞観4年(862年)に従四位上に直叙され、中央官界で頭角を現す。貞観14年(872年)には28歳で参議に任ぜられ、弟の清和天皇や陽成天皇を支えた。宇多天皇にも信任され、寛平7年(895年)には農民保護政策を実施。寛平9年(897年)に右大臣正三位として53歳で薨去。没後、正二位を贈られる。菅原道真と親しく、勅撰歌人としても知られる。娘たちは藤原忠平や貞純親王と結婚し、藤原摂関家や清和源氏にその血統を伝えた。

 

藤原師輔・右大臣正二位→

妻:藤原盛子(父:皇后宮大進 藤原経邦)

藤原経邦 - Wikipedia

平安時代初期の貴族で、右近衛少将・藤原有貞の子に生まれる。従五位上・武蔵守を務め、皇太后大進や武蔵守を歴任。延喜11年(911年)には出羽守として亭子院酒合戦に参加し、酒豪として名を馳せるも、最終的に嘔吐するほどの酔いを見せた。娘の盛子は藤原師輔に嫁ぎ、摂関を歴任した伊尹・兼通・兼家や村上天皇の中宮となった安子の生母となる。

 

妻:四条宮 勤子内親王(父:醍醐天皇)

醍醐天皇 - Wikipedia

日本の第60代天皇である醍醐天皇は、元慶9年(885年)に生まれ、延長8年(930年)に崩御した。在位は寛平9年(897年)から延長8年(930年)までで、34年間にわたる。彼の治世は「延喜の治」と称され、摂関を置かずに形式上の親政を行い、数々の業績を収めた。延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を命じ、自身も和歌に秀でた。昌泰4年(901年)には、菅原道真を左遷した事件が「聖代の瑕」と評される。天皇の治世は政治・文化の振興に努め、後世に理想の時代とされた。崩御後も陵は平安時代の数少ない所在が確定している陵の一つとして知られる。

 

妻:雅子内親王(父:醍醐天皇)

妻:康子内親王(父:醍醐天皇)

 

藤原兼家・太政大臣→
妻:藤原時姫?-981(父:左京大夫 藤原仲正)
子女に恵まれて娘たちは藤原兼家や藤原雅材へ嫁ぎ、藤原道長・東三条院(藤原詮子)などは外孫にあたる。また、伊達氏など有力な武家がその子孫と称した。
 
妻:「蜻蛉日記」作者(父:丹波守 藤原倫寧)
平安時代中期の貴族・歌人で、朱雀朝では中務少丞を務め、村上朝初頭に右衛門少尉や右馬助などを歴任。村上朝半ばには陸奥守として地方官を務め、右兵衛佐や左衛門権佐にも就任。村上朝後半には河内守、円融朝では丹波守や伊勢守を務め、常陸国や上総国の国司も歴任した。貞元2年(977年)に正四位下で卒去。一条堀川に住み、『後拾遺和歌集』に和歌1首が採録されるなど歌人としても活動。天延2年(974年)作成の奏状が『本朝文粋』に残る。
 
妻:保子内親王(父:村上天皇)
村上天皇は、945年に第61代朱雀天皇の譲位により即位した。治世中、平将門と藤原純友の乱後、朝廷の財政難に対応し、倹約を心掛けた。親政を目指すも、実際には藤原氏の実頼・師輔兄弟が政治の実権を握っていた。『後撰和歌集』の編纂を命じ、和歌や楽器に精通し、文化面での貢献が評価される。康保4年(967年)に崩御し、陵は京都市右京区にある。村上源氏の祖としても重要な存在とされる。
 
妻:対の御方(父:藤原国章)
平安時代中期の公卿で、従三位・皇后宮権大夫を務めた。朱雀朝末の天慶8年(945年)に文章生となり、円融朝では地方官として近江守や太宰大弐を歴任。貞元2年(977年)、大地震で倒壊した八省院廊の再建に尽力し、従三位に叙せられ公卿に列せられる。円融朝末の天元5年(982年)に皇太后宮権大夫に任じられ、皇太后・昌子内親王に仕える。花山朝の寛和元年(985年)に67または75歳で薨去。娘は摂政・藤原兼家の妾となり、後に三条天皇尚侍となる藤原綏子を産む。
 
妻:中将の御息所(父:藤原懐忠?)
平安時代中期の公卿で、藤原南家に属する。天暦4年(950年)に従五位下に叙せられ、天徳2年(958年)に侍従に任官。以後、左衛門佐や右近衛少将などの武官を歴任し、備中権介や讃岐権守など地方官も兼任。円融朝では従四位下・右近衛中将に叙される。貞元3年(978年)からは弁官として活躍し、永祚元年(989年)に従三位・参議となり公卿に昇進。一条朝で中納言や大納言に就任し、従二位に至る。寛弘6年(1009年)に大納言を致仕し、寛仁4年(1020年)に86歳で没する。
妻:権の北の方
妻:(父:中宮亮 藤原忠幹)
山城守、大和守、中宮亮、勘解由長官を歴任し、天暦4年(950年)頃に河内守を務めている。中宮亮を務めていた頃に摂政・藤原兼家が忠幹の邸に通い自身の娘が兼家の室となり道義を産んでいる。
妻:(源兼忠)
 
藤原道長・従一位太政大臣→
妻:源倫子(父:左大臣 源雅信)
平安時代中期の貴族である源雅信は、承平6年(936年)に臣籍降下し、以降、侍従や右近衛権中将などを経て、天暦5年(951年)には参議に任ぜられ公卿に列した。円融天皇の即位後、急速に昇進し、天禄3年(972年)には大納言となり、さらに貞元3年(978年)には左大臣に昇進。円融天皇や花山天皇の信頼を受け、一上として政務を執行した。正暦4年(993年)、辞官後に出家し、74歳で没する。雅信は音楽の名匠としても知られ、朗詠の祖と称される。さらにその子孫は、庭田・綾小路などの公家や、武士の佐々木氏として後の歴史に影響を及ぼした。
妻:源明子(父:左大臣 源高明)
平安時代中期の公卿で、正二位・左大臣にまで昇進。学問に優れ、朝儀にも通じ、藤原師輔や中宮・安子からの支援を受けた。安和の変で失脚し、大宰府へ左遷される。後に帰京するも政界復帰は叶わず、葛野に隠棲した。学問を愛し、『西宮記』を著し、和歌にも秀でていた。最期は天元5年(982年)に69歳で没し、後に従一位を追贈された。
 
女:源簾子(父:参議 源扶義)
源扶義は、平安時代中期の公卿で、宇多源氏の一員。学問に励み、天延3年(975年)には文章生となる。貞元2年(977年)に進士蔵人として六位蔵人に任命され、その後も順調に昇進。天元5年(982年)には安芸権守、翌年には河内守を務める。寛和2年(986年)に正五位下となり、永延元年(987年)には五位蔵人兼右少弁として一条天皇に仕える。正暦5年(994年)には参議兼右大弁に任命され、公卿に列する。議政官としての職務を全うし、長徳4年(998年)に48歳で没する。没後の寛弘7年(1010年)には邸宅が焼失したという記録が残る。
 
女:藤原儼子(父:太政大臣 藤原為光)
右大臣・藤原師輔の九男とされるが、兄の伊尹・兼通から重用され昇進を重ねる。伊尹・兼通の死後は兼家と摂関の座を争う。娘の忯子が花山天皇の寵愛を受け、自身も重用されるが、寛和元年(985年)に忯子が急死すると寛和の変により花山天皇は退位し、摂関の座は兼家が手にする。
のちに兼家の息子・道隆の政権下で太政大臣となる。
 
藤原頼通・関白→
妻:藤原祇子(父:藤原種成)
妻:隆姫(父:中務卿 具平親王)
平安時代中期の皇族である具平親王は、村上天皇の第七皇子として生まれ、知的好奇心に富んだ人物だった。円融朝で元服し、一条朝では兵部卿・中務卿を歴任し、寛弘4年(1007年)には二品に昇進。文人としても卓越し、詩歌管弦や書道に加え、陰陽道・医術にも通じていた。橘正通や慶滋保胤に師事し、大江匡衡や藤原為頼兄弟とも親交を持った。特に藤原公任との歌の優劣を巡る論争が有名であり、これが後に公任が『三十六人撰』を選定するきっかけとなった。彼の詩歌は『拾遺和歌集』をはじめとする勅撰和歌集に多数収められている。嫡男師房の子孫は村上源氏として院政期に勢力を拡大した。
妻:源袛子(父:式部卿 敦平親王)
三条天皇の第三皇子
 
藤原師実・摂政関白太政大臣→
女:(父:源頼国)
平安時代中期の武将であるが、主に京で中級官人として活動した。藤原道長一族と強く結びつき、道長の娘である上東門院彰子やその子である後一条天皇に長く仕えた。文人としても活動し、道長の漢詩の会に出席した記録がある。実際の武人としての活躍は少なく、京周辺で警察的活動に従事した。子女に恵まれ、その中には歌人として知られる者や後代の武門として歴史に名を刻んだ者がいる。娘たちは摂政や参議の妻となり、貴族社会での影響力を持った。説話では父・頼光と共に酒呑童子退治に参加したとされるが、これは創作である。
 
女:(父:藤原基貞)
庶子だったことから昇進には恵まれず、藤原道長の孫でありながら兄弟中唯一公卿に昇れなかった。一方で多くの子息に恵まれ、三条家・大炊御門家として後世に血統を繋げた。
 
妻:(父:藤原永業)
 
藤原家忠・左大臣→
妻:(父:藤原定綱)
関白・藤原頼通の四男として生まれるが、小野宮流に養子に出される。同母兄弟の俊綱・忠綱と同じく、摂関家の子弟でありながら公卿昇進はならなかった。
妻:家女房(父:橘致綱)
 
藤原忠宗・権中納言→
妻:(父:藤原能実)
平安時代後期の公卿である。永保2年(1082年)に元服し、従五位上に叙せられると、白河朝で侍従や左近衛権少将に任ぜられる。以降、摂関家の子弟として順調に昇進し、寛治元年(1087年)には従三位に叙せられ公卿に列す。嘉保3年(1096年)には参議、康和元年(1099年)には権中納言となり、保安3年(1122年)には大納言に至る。晩年、病により出仕が困難となり、長承元年(1132年)に出家し、同年に薨去。享年63。
妻:(父:参議 藤原家保)
平安時代後期の公卿である藤原家保は、白河院政期において大きな信任を受け、白河院司受領や院庁別当を歴任する。長承3年(1134年)には従三位参議に昇進し、善勝寺流の嫡流として確固たる地位を築く。しかし、白河法皇の死後、鳥羽院政期においては家保と嫡男の顕保が失脚し、弟の家成が台頭することとなる。家保は受領時代に培った経済力を活用し、証金剛院など多くの堂塔の造営に貢献した。邸宅は三条東洞院にあったとされる。
 

中山忠親・内大臣(中山家初代当主)→

妻:(父:権右中弁 藤原光房)

藤原光房 - Wikipedia

平安時代後期の貴族で、正四位下・権右中弁を務めた。白河院政期末に摂津守を務め、保延4年(1138年)には伊賀守として土御門殿を築造し、崇徳天皇が還御したが、7ヶ月後に焼亡した。永治元年(1141年)、近衛天皇の践祚に伴い五位蔵人に任ぜられる。近衛天皇中宮・藤原呈子にも中宮亮として仕え、久寿元年(1154年)に出家し、翌日に46歳で卒去した。

 

妻:(父:権大納言 平時忠)

平時忠 - Wikipedia

姉は平清盛の妻である平時子、妹には後白河法皇の寵妃・建春門院。平家政権内で大きな影響力を誇った。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると捕虜となる。源義経に接近し再起を図るが果たせず、能登に配流された。

 

中山兼宗(中山家2代当主)→

中山兼宗 - Wikipedia

平安末期から鎌倉前期にかけての公卿・歌人で、正二位・按察使、権大納言を歴任。彼は様々な官職を経て、建暦元年(1211年)に正二位大納言に至る。議政官としても活躍し、加賀権守や中宮大夫などを兼任した。歌人としては、『千載和歌集』に1首が入り、以後の勅撰和歌集に20首が収録されている。彼の和歌は公事をこなすように詠むべしと評価された。音楽にも秀で、箏や琵琶の役を務めたことが知られる。仁治3年(1242年)、享年80で薨去。

 

妻:(父:大宰大弐 藤原重家)

藤原重家~

平安時代後期の公卿であり歌人。周防国や筑前国の国司を歴任し、二条天皇の側近と見なされるが、後白河法皇の意向で一時解官される。その後、仁安3年(1168年)に復権し、嘉応2年(1170年)に従三位に昇進し公卿となる。承安元年(1171年)に大宰大弐に就任。和歌・漢詩・管弦に優れ、特に和歌では兄から人麿影供を相伝され、六条藤家を継ぐ。『千載和歌集』などの勅撰和歌集に多数の歌が収録されている。安元2年(1176年)に出家し、法名を蓮寂または蓮家とする。家集に『大宰大弐重家集』がある。

 

男子:中山仲親 

男子:良豪

 

中山忠定(中山家3代当主)→

中山忠定 - Wikipedia

妻:順徳院兵衛内侍(父:左京権大夫 藤原隆信) 

藤原隆信 - Wikipedia

平安末期から鎌倉初期の貴族・歌人・画家。若い頃から歌人としての名声を得、二条天皇や後鳥羽天皇に仕えた。歌人としては、寂蓮と並び称されることもあったが、次第に作風が平凡と見なされるようになった。官界では美福門院の庇護を受け、若くして昇進したが、後白河上皇の敵意を受けて一時的に挫折。しかし、後に宥免されて昇進を続けた。浄土宗の法然に帰依し、戒心と号して出家。晩年には肖像画「似絵」の名手としても知られた。元久2年(1205年)に64歳で没。物語や歴史物語も執筆したとされるが、現存しない。

男子:中山基雅(? - 1266年)

 

男子:中山道平

男子:中山師親

1246-1319 大僧正 忠源(義父:六波羅探題南方 北条時盛) 

 

北条時盛 - Wikipedia

承久3年(1221年)の承久の乱では、父・時房に従って東海道から西上し上洛。父が連署に就任して鎌倉に帰還すると、その後任として六波羅探題南方に就任した。
父の死去後は六波羅探題南方を解任され幕政の中枢からは遠ざかり、出家して後半生を過ごした。

 

中山基雅(中山家4代当主)→

中山基雅 - Wikipedia

妻:(父:権中納言 姉小路実世)

姉小路実世 - Wikipedia

鎌倉時代初期から中期にかけての公卿で、権大納言の長男として官位に昇進する。承元2年(1208年)に従五位下に叙爵され、建保2年(1214年)には侍従に任ぜられた。以降、阿波介や左近衛少将、左近衛中将、参議などを歴任し、寛喜2年(1230年)には公卿に列する。文暦2年(1235年)に正三位・権中納言に叙任され、暦仁2年(1239年)には正二位に昇進するが、仁治元年(1240年)に停任され、正嘉元年(1257年)に出家した。文永元年(1264年)、61歳で薨去。生涯で火災や嫡男の卒去などの不幸に見舞われ、最終的に家督は弟が継ぐこととなった。

 

家親

経親

 

中山家親(中山家5代当主)→

中山家親 - Wikipedia

定宗 

家宗

 

中山定宗(中山家6代当主)→

中山定宗 - Wikipedia

 

中山親雅(中山家7代当主)→

中山親雅 - Wikipedia

南北朝時代から室町時代初期にかけての公卿。康暦2年/天授6年(1380年)に参議に任じられ、その後、権中納言を経て、永徳3年/弘和3年(1383年)には従二位に叙される。応永1年(1394年)には権大納言となる。応永28年(1421年)4月16日に出家し、政界を退く。中山家7代目として、家の地位を維持する役割を果たした。

 

中山満親(中山家8代当主)→

中山満親 - Wikipedia

南北朝時代から室町時代前期にかけて活動した公卿。正二位・権大納言の官位を持つ。応安6年/文中2年(1373年)に叙爵し、永和元年/天授元年(1375年)に侍従となる。至徳3年/元中3年(1386年)には正五位下に叙され、満親と改名。嘉慶元年/元中4年(1387年)に左近衛少将、明徳元年/元中7年(1390年)には信濃権介を務める。応永2年(1395年)には蔵人頭となり、応永9年(1402年)に正四位上・参議として公卿に列する。応永28年(1421年)に出家し祐満と号し、同年に没する。享年51。

男子:中山定親(1401-1459)

男子:中山有親

 

中山定親(中山家9代当主)→

中山定親 - Wikipedia

室町時代の公家である中山定親は、足利義教の側近として活躍した。応永25年(1418年)から自身の日記『薩戒記』を書き始め、貴族社会の儀礼や故実に関する信頼を得た。永享8年(1436年)には伝奏に任じられ、朝廷と幕府間の交渉を担当。義教の信任を受け、特に義教政権末期には、定親が唯一の伝奏者とみなされるほどの影響力を持った。嘉吉の乱後も政治的地位を維持し、伝奏として重要な役割を果たした。文安5年(1448年)に病気で出家し、長禄3年(1459年)に死去した。

男子:中山親通

男子:親輔

男子:賢深

 

中山親通(中山家10代当主)→

中山親通 - Wikipedia

 

中山宣親(中山家11代当主)→

中山宣親 - Wikipedia

室町時代の公卿であり、正二位、権中納言を務めた。中山家の11代目として、文明13年(1481年)に参議に任じられる。永正3年(1506年)には出家し、祐什と名乗った。永正14年(1517年)10月4日に死去し、その後は子の康親が家督を継いだ。

妻:祐心(父:本願寺八世 蓮如)

蓮如 - Wikipedia

康親

庭田重親

源雅

光深

興子

如宗(名塩教行寺住持 蓮芸室)

 

中山康親(中山家12代当主)→

中山康親 - Wikipedia

妻:(父:権大納言 正親町公兼)

庭田重経室

 

正親町公兼 - Wikipedia

 

中山孝親(中山家13代当主)→

中山孝親 - Wikipedia

戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した公卿で、権大納言中山康親の子として生まれる。官位は従一位・准大臣を授かり、中山家の13代当主を務めた。『公卿補任』にその名が記されており、家系は忠親から始まり、孝親に至るまで続く長い歴史を持つ。戦国時代の混乱期においても、公卿としての地位を維持し続けた。

妻:(父:治部卿 五辻諸仲)

甘露寺熙長(甘露寺家へ) 

1555-1617 大炊御門経頼(大炊御門家へ)

 

五辻諸仲 - Wikipedia

天文7年(1538年)に従三位に叙せられ、五辻家として初めて公卿に昇る。これにより創設以来地下家であった五辻家は、堂上家(公卿になれる家柄)に加わることとなる

 

中山親綱(中山家14代当主)→

中山親綱 - Wikipedia

戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。永禄元年(1558年)に元服し、永禄3年(1560年)に従五位上に叙せられてから3年ごとに昇進。天正4年(1576年)には参議となり公卿に列する。天正8年(1580年)には賀茂伝奏に任命され、天正15年(1587年)まで務める。以降は武家伝奏として豊臣秀吉と朝廷の連絡を担当。慶長3年(1598年)に55歳で薨去した。法名は常照院真月想空。

妻:(父:神祇伯 雅業王)

長男:慶親(1567 - 1618)

次男:為親(1575 - 1610) - 中山冷泉家の祖 

男子:憲応(? - 1617) - 醍醐寺報恩院 

娘:親子(1576 - 1608) - 後陽成天皇典侍 

娘:女子(? - ?) - 今出川季持室

娘:女子

 

中山慶親(中山家15代当主)→

中山慶親 - Wikipedia

室町時代から江戸時代初期にかけて活躍した日本の公卿。中山家15代当主であり、天正4年(1576年)に元服し、禁色宣下を受けた。天正17年(1589年)には参議に任じられ、公卿入りを果たす。元和4年(1618年)に中風で薨去し、享年53。法号は西照院凉月向空。

長男:中山元親(1594 - 1639)

次男:寛済(? - 1663) 

女子

女子(? - 1640)

 

中山元親(中山家16代当主)→

中山元親 - Wikipedia

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿。中山家の16代当主。慶長16年(1611年)に元服し、従五位上・侍従に任じられる。寛永4年(1627年)には参議となり公卿入りを果たす。寛永16年(1639年)に薨去。享年47歳で、権大納言任官の3日後だった。法号は光林院観月梵空。

 

 

中山英親(中山家17代当主)→

中山英親 - Wikipedia

親量

中山篤親(中山家18代当主)( 正親町実豊の三男・養子)→

 

中山兼親(中山家19代当主)→

中山篤親 - Wikipedia

中山兼親

 

定綱

孝廉

 

妻:花園実満の娘

庭田重孝(初名は幸親、庭田重条の養子へ)

 

男子:尊誠 - 花山院定誠の養子

女子(柳原資堯室)  

 

花山院定誠 - Wikipedia

江戸時代前期の公卿である花山院定誠は、京都で生まれ、承応2年(1653年)に花山院家の家督を継承した。承応元年(1652年)に叙爵され、その後、寛文5年(1665年)に権大納言となる。辞職後、天和3年(1683年)に再任され、延宝3年(1675年)から貞享元年(1684年)にかけて武家伝奏役を務めた。貞享元年には禁中での口論が原因で、甘露寺方長が解任される事件が起こる。同年、内大臣に任じられ、貞享3年(1686年)まで務めた。元禄5年(1692年)に出家し、宝永元年(1704年)に薨去した。享年65。

 

 

中山栄親(中山家20代当主)→

中山栄親 - Wikipedia

江戸時代中期の公卿である。正二位・権大納言の位にあり、享保17年(1732年)に参議に任じられる。元文5年(1740年)、中山家から初めて新嘗祭の儀式伝奏に選ばれ、寛保2年(1742年)には内々衆に加わる。これにより朝廷の要職を歴任した。これは一条兼香、道香父子との強いつながりが影響したとされる。

妻:(父:権大納言 勧修寺高顕)

花山院愛徳 - 花山院長熙の養子

四条隆師 - 四条隆叙の養子

養子:中山愛親

 

勧修寺高顕 - Wikipedia

 

花山院長熙 - Wikipedia

江戸時代中期の公卿である。元文5年(1740年)に叙爵し、侍従や左近衛権少将を歴任した後、寛延2年(1749年)に従三位に昇進し公卿に列する。その後、左近衛中将や権中納言、右兵衛督などの役職を務め、宝暦3年(1753年)に権大納言に就任した。さらに宝暦10年(1760年)には正二位を授かり、明和5年(1768年)には右近衛大将に任じられた。しかし翌年病に倒れ、出仕を辞めた。同年に薨去し、享年34。

 

四条隆叙 - Wikipedia

 

中山愛親(中山家21代当主)(正親町実連の養子)→

中山愛親 - Wikipedia

江戸時代中期から後期にかけての公卿で、正二位・権大納言を務めた。宝暦11年(1761年)に参議、安永3年(1774年)には権大納言に任じられる。天明2年(1782年)には議奏として光格天皇に近侍し、天皇の父である閑院宮典仁親王に太上天皇号を宣下しようと奔走するが、幕府に認められず尊号一件として紛糾する。寛政5年(1792年)には江戸に喚問され、老中松平定信と対談するも閉門を命じられる。明治17年(1884年)に従一位が贈られる。彼の抗議が伝説となり、小説が書かれるなど、後に影響を与えた。

妻:(父:権中納言 今城定種)

男子:中山忠尹

寛尹: (母同忠尹。従五位下。後出家、日巌院権僧正法印) 

男子:(母同忠尹。河鰭為実子)

重基:(母同。庭田重能嗣)

庭田重能 - Wikipedia

庭田重能は江戸時代後期の公卿で、権大納言庭田重嗣の子として生まれた。官位は従一位で、任参議、大納言を務めた。具体的な業績や生涯についての詳細な記録は少ないが、当時の公卿として朝廷における重要な役割を果たしたと考えられる。情報が限られているため、さらなる研究や記録の発掘が期待される人物である。

家女房

女子:砥豫子 - 藤波寛忠室 

藤波寛忠 - Wikipedia

江戸時代後期の公卿であり、神宮祭主を務めた。9歳で叙爵し、13歳で元服と昇殿が許された。安永7年(1778年)には養父から神宮祭主を引き継ぎ、天明3年(1783年)には従三位に昇進し公卿に列せられた。寛政6年(1794年)には大殿祭への勤仕の賞として直衣が許される。文政7年(1825年)、66歳で薨去し、神祇大副を辞任した直後のことだった。

 

女子:野宮定静室 

女子:中山績子 - 高松局、仁孝天皇典侍

仁孝天皇 - Wikipedia第百二十代天皇

仁孝天皇は第120代天皇として文化14年(1817年)に即位し、弘化3年(1846年)まで在位した。光格天皇の意を受けて朝儀の復興に尽力し、公家や皇族の教育機関設立を目指した。幕府との折衝の末、学習院の設立が決まったが、崩御により実現を見ず、翌年に天皇の遺志により設立された。陵は京都市東山区の泉涌寺内にある後月輪陵にある。15人の子供を持つが、多くが幼くして亡くなった。

 女子:今城定成室

 

中山忠尹(中山家22代当主)→

中山忠尹 - Wikipedia

江戸時代後期の公卿である。宝暦6年(1756年)生まれ。中山家の22代当主として正二位、権大納言の官位を持つ。天明元年(1781年)に参議に昇進し公卿となる。天明5年(1785年)には権中納言、寛政3年(1791年)には権大納言に任命される。寛政6年(1794年)から賀茂伝奏を兼務し、寛政8年(1796年)に辞任。寛政10年(1798年)に権大納言を辞して散位となる。文化6年(1809年)、54歳で死去。

妻:楢君(父:右大臣 三条実顕)

三条実顕 - Wikipedia

江戸時代中期の公卿である。初名は利季。正徳4年(1714年)に叙爵し、享保4年(1719年)に叔父の三条公充の婿養子となる。三条家の嫡男としてさまざまな官職を歴任し、寛延2年(1749年)には右近衛大将、内大臣に就任するが翌年辞職。宝暦4年(1754年)には従一位・右大臣に任じられ、再び辞職する。中御門天皇、桜町天皇、桃園天皇の三代にわたり仕えた。

 

男子:中山忠頼 

男子:園基茂

女子:尹子 - 大炊御門経久妻

大炊御門経久 - Wikipedia

江戸時代中期から後期にかけての公卿。三代の天皇に仕え、天明2年(1782年)に叙爵後、清華家当主として急速に昇進。侍従や右近衛権中将などを歴任し、寛政元年(1789年)に従三位となり公卿に列した。文政4年(1821年)には右近衛大将・右馬寮御監に就任。文政7年(1824年)に従一位・内大臣となるも同年辞職。その後長く政界を離れていたが、安政4年(1857年)に右大臣に就任した。

妻:(父:右大臣 花山院常雅)

花山院常雅 - Wikipedia

江戸時代中期の公卿である。元禄16年(1703年)に叙爵し、以降累進して元文元年(1736年)に内大臣に任じられる。元文4年(1739年)までその職を務めた。延享4年(1747年)には従一位に昇進し、寛延2年(1749年)に右大臣となるが、すぐに辞職し、その後は政界に復帰することなく過ごした。明和7年(1770年)、片歌を提唱した建部綾足に『片歌道守』の称号を授与。また、和漢に通じ、伊藤東涯に心酔していた。東涯が亡くなると、その弟子たちに墓碑の銘文を追贈している。

 

中山忠頼(中山家23代当主)→

中山忠頼 - Wikipedia

妻:正親町三条綱子(父:参議 正親町三条実同)

正親町三条実同 - Wikipedia

江戸時代中期の公卿である。寛延3年(1750年)に叙爵し、侍従や右近衛権少将、右近衛権中将を歴任。明和6年(1769年)には従三位参議に昇進し、公卿に列する。明和8年(1771年)に一度辞任するが、安永8年(1779年)に参議に再任され、左近衛権中将も兼務。踏歌節会外弁を務めるが、天明5年(1785年)に38歳で薨去。正親町三条家の24代目であり、孫には大正天皇の曾祖父母や明治天皇の外祖父がいる。

 

男子:中山忠能(1809-1888) 

生母不明の子女 

男子:園基万

園基万 - Wikipedia

 女子:勘解由小路光宙室

勘解由小路光宙 - Wikipedia

江戸時代末期の公卿であり、広橋胤定の末子。文政元年(1818年)に勘解由小路資善夫妻の養子となり、翌年元服して昇殿を許され、遠江権介に任命される。その後、中務権大輔や皇太后宮少進などを歴任し、天保12年(1841年)に従三位、弘化2年(1845年)に正三位に昇進する。文久2年(1862年)、正三位非参議のまま55歳で死去。男子がいなかったため、裏松恭光の四男である資生が婿養子として後を継ぐ。彼の日記『光宙卿記』は、天保2年(1831年)から死去するまでの30年間を記録している。

 

★中山忠能・侯爵(中山家24代当主)→

妻:松浦愛子(父:肥前平戸藩九代藩主 松浦清、義父:権中納言 園基茂)

松浦清 - Wikipedia

肥前国平戸藩の第9代藩主

 

中山忠愛・右近衛中将(中山家25代当主)→

 

中山孝麿・侯爵・麹町区長・ 東宮侍従長 ・宮中顧問官 ・帝室会計審査局長(中山家26代当主)→

妻:四辻勝子、浅子(父:権大納言 四辻公績)

妻:成瀬三千代(父:子爵 成瀬正肥)

成瀬正肥 - Wikipedia

篠山藩主青山忠良の子・婿養子になる 尾張藩附家老。尾張国犬山藩第9代(最後)の藩主。

最後の藩主

 

中山輔親・侯爵(中山家27代当主) →

妻:九条豊子(父:公爵 九条道実)

九条道実 - Wikipedia

明治2年(1870年)生まれの九条道実は、日本の宮内官や政治家として活躍した。1896年(明治29年)から式部官や掌典長などの役職を歴任。1889年(明治22年)にはイギリスに留学し、国際的な視野を広げた。1906年(明治39年)には公爵を襲爵し、貴族院公爵議員に就任。祭官長としても活動し、明治天皇の一周年祭では祭詞を奏上。1920年(大正9年)には明治神宮に勅使として参向。昭和8年(1933年)に死去するまで、多くの公職を務めた。彼の業績は日本の政治と文化に影響を与えた。

 

中山忠敬(中山家28代当主)→

妻:伊藤雪子(夫:公爵 伊藤博精)

伊藤博精 - Wikipedia

宮内官・伊藤博邦(伊藤博文養嗣子、井上馨の甥)、たま夫妻の長男として生まれる

(大正11年)東京農業大学を卒業。1923年(大正12年)三井合名会社に就職。その後、李王職御用掛、掌典などを務めた。父の死去に伴い1931年(昭和6年)7月1日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任。火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した

 

中山忠和(中山家29代当主)→

妻:森川雅子1960-(父:森川通誠)

久我通保の四男:久我通誠【森川通誠】(森川つきの養子)

 

久我通保~久我通久の子

久我通久 - Wikipedia

江戸時代後期から大正時代にかけて活躍した公卿であり、政治家。明治新政府で参与となり、大和国鎮撫総督や東北遊撃軍将として重要な役割を果たす。明治2年(1869年)には鎮撫惣督として仙台に赴き、騒擾を鎮定。明治17年(1884年)、侯爵に叙せられ、貴族院議員として政治に関与。宮中顧問官や東京府知事も務めるなど、多岐にわたる役職を歴任した。和歌や書道、謡曲にも精通した文化人としても知られている。大正14年(1925年)に享年84で没する。

 

中山忠明

 

☆気付いた事・・・

藤原氏はもともと渡来人である。

藤原内麻呂・贈太政大臣従一位→

妻:百済永継(父:飛鳥部奈止麻呂)

飛鳥部奈止麻呂 - Wikipedia

飛鳥部氏は河内国安宿郡を本拠とするとみられる百済系渡来氏族で、百済の24代王である末多王(東城王)の末裔とする。東大寺写経所経師に、安宿公広成(百済飛鳥戸伎美。河内国安宿郡の人)が見える。

 

つまり、百済の24代王である末多王の末裔を妻としている。

 

藤原内麻呂・贈太政大臣従一位→

●妻:坂上登子(父:鎮守府将軍 坂上苅田麻呂)

坂上苅田麻呂 - Wikipedia

坂上苅田麻呂

奈良時代の公卿であり武人である。藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇の命を受け、訓儒麻呂を討ち取る功績を挙げた。この功により、大忌寸の姓を賜り、昇進を果たし、後に従三位まで昇進した。光仁天皇の治世では中衛中将を務め、複数の地方官も兼務した。桓武天皇の即位後は右衛士督に任じられ、延暦4年(785年)には一族の改姓が許され、大宿禰姓を名乗った。享年59で薨去。

 

坂上田村麻呂 - Wikipedia・・・父は坂上苅田麻呂!

坂上田村麻呂

平安時代の武官であり公卿の坂上田村麻呂は、桓武天皇をはじめとする4代の天皇に仕え、征夷大将軍を2度務めたことで知られる。延暦16年(797年)には陸奥・出羽の按察使兼陸奥守、鎮守将軍といった役職を兼ね、東北地方の蝦夷征討にあたった。胆沢城や志波城の造営を指導し、東北地方の平定に貢献。死後、神将や武神として祭られ、平安京の守護神とされた。彼の伝説は後世、多くの物語や信仰の対象となり、広範囲にわたり影響を及ぼした。

 

縄文人である「根族」を根絶やしにしたのが坂上田村麻呂、その父親が坂上苅田麻呂。

藤原内麻呂の妻が坂上苅田麻呂の娘である坂上登子。坂上田村麻呂とは兄弟である。

 

坂上氏 - Wikipedia

出自も後漢の霊帝の子孫と称した。阿知使主は倭漢氏の発展につれて作られた渡来伝承,始祖伝承上の人物であり、子の都加も6世紀の東漢直掬の名を投影して作った名である関晃「倭漢氏の研究」(『史学雑誌』62巻9号)。『坂上氏系図』によれば坂上直姓の氏祖は阿知使主の孫で東漢氏の坂上直志拏である。

 

・・・という事で坂上一族は渡来人である。

 

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貴嶺会の資料には天忠党を支援している存在に「坂上一族」「坂上民部」とある。

はるか昔から渡来人である坂上一族は渡来人である藤原氏に協力していた・・・

という事になる。

坂上田村麻呂の時代から今現在まで

現在進行形である。

 

蘇我蝦夷 - Wikipedia

蘇我蝦夷は、飛鳥時代に活躍した政治家で、蘇我馬子の子。大臣として権勢を握り、推古天皇の崩御後、田村皇子を舒明天皇として即位させる。蝦夷は外交面でも百済や高句麗、新羅と等距離外交を志向し、国際情勢に対応した。皇極天皇元年(642年)、百済の王族を保護し、彼らを倭王権の中枢に置く。蝦夷は専横の象徴とされる行動を取るが、近年の研究ではそれらが過大に評価されているとされる。皇極4年(645年)、乙巳の変で息子入鹿が暗殺され、自らも自害し蘇我氏の本家は滅亡した。

 

百済の王族を保護し、彼らを倭王権の中枢に置く・・・これが現在まで続いている。

 

そして渡来人である藤原氏が現在パラレルワ-ルド二本を支配している。

 

そして「へんのうていか」自身、自分の出自は渡来系である事をカミングアウト

している。

間違いなく現在パラレルワ-ルド二本では「よそ者である黒いカッコウが

縄文人を駆逐して支配して存在しているタイムラインである」

 

「過去から現在まで支配され続けている・・・それが二本の歴史である」

 

それが現在wingmakerが、調査して判明して途中結果である。