以前このブログでは、

欽ちゃんこと、萩本欽一さんについて

何回か記事にしたことがあります。

 

 

萩本さんは、人間の幸不幸とか運とかいったものについて

独自の哲学を持っておられて、

それをご自身の著書のなかでも開陳されているんですよね。

 

 

いろんなお話がでてくるんですが、

一貫しているのは、

幸運をつかもうと思うなら人間は苦労しなければいけない、

快楽を味わってしまうとそのぶん運を消費してしまう、

それではいけない、

という考え方なんですよ。

 

 

たとえば、

お寿司で高級なネタを食べるのはよくない、

お風呂で湯船につかるのは気持ちよくて運を消費してしまうから

よくない、

野球選手がチューインガムを噛むのはストレス解消になる、

ストレスが解消されるということは、

運を消費するということだから、

それでは試合に負けてしまう、

とかいった具合なんです。

 

 

このように欽ちゃんは、

わたしたちが快楽を味わって運を消費してしまう

ということがないように、

苦を受け入れて運を貯めるように、

しきりに勧めてくるわけなんですよね。

 

 

本当におせっかいですよね。

 

 

で、じつはこのように

わたしたちに苦を勧めてくる有名人がほかにもいて、

それが世界の北野こと、

ビートたけしさんなんですよ。

 

 

ビートたけしさんはその著書のなかで、

こんな話を書いておられます。

 

 

自分が成功したことについて

これまでの人生を振り返ってみても

とくに思い当たることはないんだけど、

自分が昔から1つだけ、

続けてやってきたことがある。

 

 

それが、トイレ掃除なんだ。

 

 

こう、たけしさんはおっしゃるんですよね。

 

 

たけしさんのトイレ掃除は徹底しています。

 

 

自分ちのトイレを綺麗にする、

ということだけでは、ないんですよ。

 

 

たけしさんは、外出先で

公衆トイレの便器が汚物で汚れていたりすると

率先して、それを掃除するんですよね。

 

 

だけではないんです。

 

 

たけしさんは、外出先で

公衆トイレの便器が汚れていないときでも、

掃除をするために

わざわざ汚れている便器を探し回って、

それで汚れている便器を見つけて掃除するらしいんですよ。

 

 

本当に徹底していますよね。

 

 

でもたけしさんは、

自分が成功した理由がなにかあるとすれば、

それはきっと

自分が昔からやっているそのトイレ掃除に違いない、と、

このようにおっしゃるんですね。

 

 

このように、有名人で成功もしている

欽ちゃんとたけしさんは、いずれも、

人生で成功するためには苦を引き受けて

率先して苦労しないといけない、

なんてことを言うわけなんです。

 

 

自分は昔、この2人の本を読んでいまして、

その内容にいたく感銘を受け、

なるほど、成功するためにはこんなことをしないといけないのか、

なんて思って

公衆トイレを掃除したりなんてことを

していた時期があったんですよ。

 

 

でもね。

 

 

どういうわけか、

そんなことをしていた時期は

自分にはぜんぜん、運がめぐって来なかったんですよね。

 

 

むしろ、つらいことばっかりが

たくさん起こったような記憶があるんです。

 

 

はっきり言いますと、

苦労を引き受けて率先して自分が苦労をするようにすると、

ますます輪をかけて

自分のもとにどんどんと苦がやってくるようになるんですよね。

 

 

これは本当に不思議な

この宇宙の法則なんだと思うんです。

 

 

普通は、

苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、なんて言いますから、

苦労をしているときっといいことがやってくるんだ、

なんて思うでしょう?

 

 

でも、実際はそうではないんです。

 

 

不思議なことに、

苦を引き受けていると

どんどんと自分のもとに苦がやってくるんですよ。

 

 

最近になって

自分にもだんだん運が向いてきたかなあ、

と思えるようなことが増えてきたんですが、

そうなるために何をやったのか、というと

厚顔無恥になったんですよね。

 

 

苦を引き受けたりしていたときには

全然幸運はやってきませんでした。

 

 

なので、そのやり方はやめたんですね。

 

 

そのかわりに自分が始めた生き方が、

厚顔無恥になって

好きなように生きる、ということだったんですよ。

 

 

苦なんかできるだけ引き受けないようにして、

やってきた苦はなんとかして跳ね返すようにして、

頭を使って苦しまないような方法、

苦を減らす方法を考えて

それをどんどん実行していったんですね。

 

 

自分の主張をごり押しして他人を傷つけた、とか、

自分の欲望に忠実に欲しいものを買いまくった、とか、

そういったことではないですよ。

 

 

2つの選択肢があった場合に、

できるだけコストがかからず

快楽を増やして苦しみを減らすような選択肢のほうを

選ぶようにした、とでもいいましょうか。

 

 

人によって、なにが快楽でなにが苦しみか、というのは

違うと思うんですが、

自分の場合は

体を使うことはしんどくて苦なんですよね。

 

 

なので、余暇の過ごし方として

①登山やハイキングに出かける

②自宅で読書をする

という2つの選択肢があった場合は、

自分なら②のほうを選んだほうが

快楽を増やして苦しみを減らすことにつながります。

 

 

また、②を選んだからといって

誰かを傷つけるわけでもないし、

特別お金がかかるわけでもありません。

 

 

選べる2つの選択肢があったときに

快楽を増やして苦しみを減らすように賢く選択する、

というのは、そういうことなんですね。

 

 

それから、先ほど述べました

厚顔無恥になる、というのはどういうことかといいますと、

むやみにいい人になろうとしない、ということです。

 

 

これは、お人よしにはならない、という意味だけではなく、

優れた人格者とかにもなろうとしない、

という意味なんですよ。

 

 

欽ちゃんとかたけしさんとかが勧める生き方というのは、

自分のやりたいことを我慢して

世の中の役に立つようなことをする、

ってことでしょう?

 

 

そういうことができる人っていうのは、

いわゆる「できた人」ですよね。

 

 

自分の人格を高めていくようにしないと、

なかなか習慣的にそういったことを続けていくのは

むずかしいことだと思うんです。

 

 

もちろん、世の中全体で考えてみたときには、

世の中にそういった優れた人格をもつ人が増えていったら、

世の中はだんだん住みよく、暮らしよくは

なると思うんですね。

 

 

率先して公衆トイレの掃除をするような人間が

世の中に増えたら、

トイレを使おうと思うときには

汚れていることが少なくなって、

快適な気持ちでトイレを使えることが

多くなりますよね。

 

 

なので、

欽ちゃんとかたけしさんが勧めるような生き方をする人間が

世の中に増えていくことは、

世の中的にはいいことなんですよ。

 

 

ただですね。

 

 

快適な思いを誰かがしようと思えば、

縁の下の力持ちといいますか、

だれかがそれを支える必要があるわけなんですよね。

 

 

快適にトイレを使用できるのも

下水関係の仕事をしてくださっている人のおかげですし、

介護サービスを利用できるのも

介護に従事してくださっている人のおかげでしょう?

 

 

世の中には、そうやって

苦を引き受けている人が存在するおかげで

誰かがラクをすることができている、

という構造があるわけなんですよね。

 

 

自分は思うんですが、

他人が苦を引き受けることもあれば自分が苦を引き受けることもある、

そうやってかわりばんこに苦を引き受けていく。

 

 

これなら、公平でいいなあと思うんですよ。

 

 

でも、先ほど宇宙の法則に言及したなかで述べたように、

自分が苦を率先して引き受けることを習慣にしていると、

楽がやってくるどころか

ますます、どんどんと自分のところに

苦ばっかりがやってくるようになるんですよね。

 

 

それって、おかしくはないですか?

 

 

世の中が安定して円滑にまわっていくためには

苦を引き受けてくれる人間がどうしても必要で、

しかも、苦を引き受けてくれるような人間の数は

多ければ多いほどいいんですね。

 

 

でも自分は、

苦は特定の人間だけが集中して引き受けるべきではなく、

みんなで仲良く公平に分担していったほうがいいんじゃないかなあ、

なんて、

そんなふうに思うんですよ。

 

 

はっきり言いますと、

欽ちゃんとかたけしさんとかの本に書いてあることは、

個人が成功するための秘密の法則ではないんですね。

 

 

そうではなくて、ああいった本に書いてあることというのは、

じつは、

個人に苦を負担させたうえで世の中全体の安定を図る方策、

なんですよ。

 

 

人間は誰だって、苦なんか引き受けたくはないし、

損だってしたくはないでしょう?

 

 

でも、世の中が安定して円滑にまわっていくためには

どうしても苦を引き受けてくれる人間、

損をしてくれる人間が必要なんですね。

 

 

社会というのは、

その構成員にうっすらと広く薄く損をかぶせていくことで

存立しているものだ、と

自分なんかは思うんですよ。

 

 

そこでどうするか、といいますと

「世の中全体のためにはなるけれど、

 実行すると自分個人としては損をしてしまうようなこと」を、

あたかも

「個人が成功するための秘密の法則」ででもあるかのように

パッケージングして、

人々に勧めるという手を使うんですね。

 

 

これは本当に重要な

世の中の隠れた仕組みなんですが、

このような狙いをもって実行されているものは

本当に多いんですよ。

 

 

たとえば。

 

 

寄付をしたら成功する、

ロックフェラーも若いころから寄付をしていた、

なんて話を聞いたことはありませんか?

 

 

寄付をしたら喜ぶのは、世の中です。

 

 

世の中には寄付を待っている困っているひとや、

いろんな事業が存在します。

 

 

でも、寄付をして財布が痛むのは

あなた個人ですよね。

 

 

そこで、寄付をしたら成功する、というような

あたかも秘密の成功法則があるかのように喧伝して

売り出すわけです。

 

 

徳川家康の遺訓には

「怒りを敵と思え」とか

「不足している時のことを思え」とかいったものがありますが、

このようなことを民衆が大切に守って自重すれば

世の中はうまく治まります。

 

 

民衆は、ただ我慢するだけです。

 

 

でも、成功者の徳川家康が言うと、

なんだかそれが秘密の成功法則みたいに聞こえるでしょう?

 

 

神社ミッション、というのもそうです。

 

 

山奥とかにある寂れた神社や寺院の賽銭箱に

万札とかの高額紙幣をお賽銭として入れると大成功する、

とかいった話です。

 

 

寂れた神社は人気がないので、参拝者も少なく、

荒れ果てていても修繕費も十分にありません。

 

 

そんなときに、万札とかを入れてくれたら

すごく助かるでしょう。

 

 

助かるのは寂れた神社や寺院です。

 

 

寂れた神社や寺院が復興するのは

日本の国全体にとってはいいことです。

 

 

でも、財布の中から万札を出してしまって

ふところがすごく痛むのは、個人なんですね。

 

 

なので、普通のひとは

そういうことはあまりしません。

 

 

だからこそ、神社ミッションという物語が必要になるんですよ。

 

 

神社や寺院が助かるという

世の中全体にとってはいいことなんだけど

個人は万札を吐き出さされて損をする、というようなことを、

あたかもそれをすれば成功する、というような

秘密の成功法則として

パッケージングしているんですね。

 

 

ありがとう、と唱えれば成功する、とか

ありがとうは魔法の言葉、とかいったものも

この類です。

 

 

人々がみんなありがとうと唱えるようになって

感謝の心を持つようになれば

私欲によって争いが起こるようなことも

減っていくかもしれませんよね。

 

 

つまり、

世の中全体にとってはプラスになるわけです。

 

 

でも、個人としては

あんまりありがたくはないような境遇に置かれているにも関わらず、

ありがとうと唱えることで

自分の正当な欲求を抑えて我慢をしているかもしれません。

 

 

このように事例を並べてきても、

なにを荒唐無稽なことを言ってるんだ、そんなのこじつけだ、

と思われる方もいらっしゃることでしょう。

 

 

でも、いま挙げてきたような例をチェックしてみると、

そのすべてが

①世の中全体のためにはなるけれど、

②個人が実行すると損をしたり苦を引き受けたりすることになるもので、

③その行動を選択実行することが秘密の成功法則のように謳われている、

ということに、お気づきにはなりませんか?

 

 

すべて、①~③の条件を満たしているはずです。

 

 

このような条件を満たすものは

世の中にはけっこう存在する、というお話をしてきて

その具体例もあげてきました。

 

 

でも、まだ挙げていないのですが

このような条件に合致するもので

有史以来、もっとも多くの人間が参加し、

世の中の支配者に利用されてきたものって、

いったいなんだかわかりますか?

 

 

それは、宗教です。

 

 

人々が宗教を信じるようになると

戒律とかがあって真っ当な生き方をしようとするので、

善がおこなわれるようになり、

世の中全体のためにはなります。

 

 

ただし、個人にとっては

戒律に縛られたり、道徳的であることを強制されたりするので、

苦を引き受けなければなりません。

 

 

喜捨とかお布施、寄付とかを信仰にともなって

おこなったりすると、

個人は損をすることにもなりますね。

 

 

そして宗教は、それを信じているときっと天国へ行ける、

極楽に往生できるなど、

信仰することが秘密の成功法則であるかのように

思われてもいます。

 

 

つまり、先に述べた①~③の条件を

ばっちし満たすんですよ。

 

 

人間の歴史においてはこのように

古くから①~③の条件を満たすようなものが

おもに支配者の側から民衆に勧められ、

少なくない人々がそれを受け入れて行動してきた、

という事実があります。

 

 

でも自分は思うのですが、

世の中のためになるようなことと、

自分個人の利益になるようなことは、

かならずしも一致していないんですね。

 

 

むしろ、この2つは

同じ方向を向いていないことのほうが多い。

 

 

そんななかで支配者の側はいつも

世の中全体、社会全体の安定のために

個人に損をかぶせつつ、世の中のためにはなるようなことを

人々に勧めてきた、というわけなんですよ。

 

 

そして、これは今回の記事のはじめのほうから述べてきたことなんですが、

苦を引き受ければきっといいことがある、

自分が率先して苦を引き受けよう、と考える

癖を持っている人間は、

世界の安定を図るためのこのような装置に取り込まれやすく、

いったん取り込まれると

その人のところばっかりに

何回も繰り返し、苦ばっかりが訪れることになるんですね。

 

 

簡単な話で、

世界は安定のために苦を引き受けたり、損を引き受けたりしてくれる

「犠牲者」

を求めており、

そのような人はその犠牲者の役割を負わされてしまうからです。

 

 

結果、その人は本当は幸福になりたいのに

幸福はやって来ないで

苦ばっかりがやってくることになるんですね。

 

 

だからこそ。

 

 

自分はそういう人にこそ、

厚顔無恥になってほしいんですよ。

 

 

厚顔無恥、というと

なんだか自分勝手に生きるようにも聞こえて、

「おまえはなんて自己中なやつだ!」

「おまえはわがままだ!」

「そんなんだからおまえはダメなんだ!」とか

言ってくるやつがいるかもしれません。

 

 

でもそれは、その人が悪いわけではないのです。

 

 

そういうふうに言ってくる人間の真の狙いはなにか、というと、

ようするに、

「おまえはいつまでも、世界の安定のために

 犠牲者のままでいつづけろ」

ってことなんですよ。

 

 

世界は常に、犠牲者となる人間を求めていますからね。

 

 

でも、自分は、それはおかしいと思います。

 

 

世界は、みんなで作り上げるものです。

 

 

世界の安定のために犠牲が必要なら、

それはみんなでかわりばんこに負担していくものだと思うんですね。

 

 

決して、1人の人間だけとか、

ごく少数の人間だけが犠牲者の立場に固定化されるべきではない。

 

 

自分は、そう思います。

 

 

だからこそ、

理不尽なこの世界の装置にまどわされることなく、

厚顔無恥になって

自分の人生を自分の手に取り戻してほしい。

 

 

誰かを傷つけるわけでもないのなら、自信をもって

「この世界の利益にはあんまりならないけれど

 自分個人にとってはうれしいこと、楽しいこと」

を追求していってほしいと思います。

 

 

苦を求める者のところには、なぜだか苦がどんどんやってくるように、

楽しいこと、うれしいことを求める者のところには

楽しいこと、うれしいことがどんどんやってくると思うんですね。

 

 

この千円札を寄付すればきっといいことが起こるんだ、

と思って募金箱へ歩き出している人がいるなら、

その千円札でたまには美味しいものでも食べませんか?

 

 

勇気をだしてみることで、

あたらしい運が自分にやってくるかもしれませんよ。