自分の体は自分のもの、というフレーズが、
ここ最近注目をあつめているようです。
このフレーズは、
子供たちへの性教育の中でとくに言われるようになってきた
言葉らしいのですね。
子供たちが性被害にあうのを防ぐために、
低年齢の段階から性教育をしていこうよ、
なんてことが、昨今言われたりしています。
そのなかで、
自分の体は自分のものなんだ、だから、
安易に他人に自分の体を触らせてはいけないんだ、
という意識を持たせることが必要だと考えられてきて、
それで、自分の体は自分のもの、
というのが特に強調されるようになってきたようです。
考えてみれば、これはとても大切なことですよね。
自分の体は自分のものだ、という意識がきちんと
子供の中に根付いていれば、
変なおじさんが子供に触れようとしても、
「おじさん、さわらないでくれる?自分の体は自分のものなんだ。
おじさんのものじゃない。だから触らないで!」
って、きちんと反撃できますよね。
でももしこれが、自分の体は自分のものだ、という意識が
子供の中にきちんと根付いていなくて、
自分の体が本当は誰のものなのか、
子供が半信半疑だったら、どうなるでしょう?
そのときは、変なおじさんが子供に触れようとしたときに、
子供が「さわらないで!やめて!」って言っても、
おじさんが「何を言ってるの、君は。君の体はおじさんのものなんだよ?
だからおじさんが君の体に触ることは自由なんだよ?」
と言われてしまい、混乱した子供が
「そんなわけない。なんで僕の体がおじさんのものなんだ!
そんなのおかしい!」って言い返しても、
おじさんは「何をでたらめ言ってるの。君の体はおじさんのものだよ?
君の体が君のものだっていう証拠でもあるの?ないでしょ?
周囲のひとは真実を教えてくれなかったかもしれないけど、
本当は、君の体はおじさんのものだ、っていうのが真実なんだよ。」
なんて言ってきて、おじさんに言いくるめられてしまうと、
子供はますます混乱してしまって、言い返せなくなってしまい、
おじさんに自分の体をさわらせてしまうかもしれません。
そんなことがないようにするためにも、
自分の体は自分のものなんだ、という意識を小さいころから
きちんと子供に持たせてあげるということが
大切なのかもしれませんね。
でも、これはよく考えてみるとあたりまえのことで、
自分のものなのは、なにも自分の体だけにかぎったことではなくて、
自分の持っているものは基本的には他人のものではなく自分のものなんだ、
というのは、当然のことなのです。
どんなものでも自分の持っているものは他人のものではなく
自分のものなんだ、という意識を普段から持てていれば、
当然、自分の体もその1つであるから自分のものであって、
簡単に他人には触らせてはいけない、
ということも、容易に思い至ることでしょう。
たとえば、お金だってそうですよね。
自分の持っているお金は、基本的には自分だけのものであり、
だれか他人のものではないはずです。
その意識がきちんと自分のなかにあれば、
他人が自分のお金に勝手にアクセスしてこようとしても、
「それはだめ。自分のお金は自分のものだよ?」
と言って、きちんとはねつけることができると思うんです。
たとえば昨今では、デートDVなんていうのもあるらしいですね。
そのデートDVにはいろんな形態があるようなのですが、
そのなかに経済的DVというのもあります。
デートにおける経済的DV?っていうと、
なんだか変な感じがして、すぐには実例を思いつかないかもしれません。
けれど、
「割り勘?割り勘なんて許せない!私の食べた分もおまえが払え!」
なんていうのも、立派なデートDV、経済的DVなんです。
DVというのと、なにか男性が女性に対しておこなうものだけを
指しているかのように思われるかもしれませんが、
実際にはそんなことはなくて、
女性から男性に対しておこなわれるDVもあるのですね。
たとえば、交際中の女性が交際相手の男性に対して、
その男性の同意を得ることなく
自分の食事代金を強要するようなことも、
立派な経済的DVにあたるわけです。
そんなときにも、
自分のお金は自分のもの。だれか他人のものじゃない。
だから、他人が勝手に自分のお金に手を出してくるようなことは
おかしい。
という意識をきちんと自分の中で持っていれば、
相手が自分のお金を勝手に使おうとしても、
きちんと拒絶できるわけです。
この点は、
自分の体は自分のもの。という意識をきちんと持てている子供が、
変な人が自分の体を触ってこようとしたときに
それを拒絶できるのと、パラレルで考えることができそうですね。
デートのような場面ばかりではなく、夫婦関係でもそうでしょう。
日本では妻が家計を管理する場面も多いようですが、
基本的には、自分のお金は自分のものなんです。
なので、夫婦のいっぽうが、相手の持っているお金を、
あたかも自分のお金ででもあるかのように支配しようとすることは、
非常におかしなことである、と言えるでしょうね。
でも、ここまで読んでこられたかたは、
こんな疑問を抱くかもしれません。
自分の体は自分のもの。自分のお金は自分のもの。自分のものは自分のもの。。。
そうやって、だれもがみんな、
自分のものは自分だけのものなんだ!絶対に他人なんかにはやらない!
と喧々囂々で主張しあっていけば、
社会はぎくしゃくしてしまって、
収拾のつかないことになってしまうんじゃないだろうか、と、
そんなふうに思われるかもしれませんね。
笠地蔵という昔話があります。
お地蔵さんに笠をかぶせてあげるという親切をしたおじいさんが、
おおみそかの夜にお地蔵さんたちからお返しをされる、
というお話なのですが、
もともとのお話のプロットは、以下のようでした。
あるところに貧しいおじいさんとおばあさんがいました。
もうすぐお正月を迎えるということで、
お正月に食べるものなど買い出しに行きたいなあ、と思ったのですが、
お金がありません。
そこで2人は、女性が髪につけるかんざしをつくって、
それを町に売りに行くことにしました。
おじいさんはできあがったかんざしを持って町に来たのですが、
全然売れません。
そのときに、その町に、
笠を売りに来ているもう1人のおじいさんがいました。
そのおじいさんの笠もぜんぜん売れません。
そこで2人は、このまま帰ってもなんだから、と、
2人の持っている商品を、おたがいに交換することにしたのですね。
そうやって、最初のおじいさんは、
もともと持ってきたかんざしのかわりに、
笠を手にしてもと来た道を帰ることになり、その帰り道に、
雪に降られたお地蔵さんを見つけるのです。
とまあ、こんな感じのお話なのでした。
ここで注目してほしいのは、
2人のおじいさんが、おたがいに商品を交換し合った、というところです。
もともとかんざしを持っていたおじいさんは、
おれのかんざしはやらないけどおまえの笠は俺によこせ、
なんてことは、言ってませんよね?
もう1人の、もともと笠を持っていたおじいさんも、
おれの笠はやらないけどおまえのかんざしは俺によこせ、
なんてことは、言ってませんよね?
おたがいに、自分の持っている商品を相手に差し出すかわりに、
それと引き換えに、相手の持っている商品も自分に譲ってもらったのです。
考えてみれば、これは社会ではあたりまえのことですよね。
自分は相手になにも与えないのに、相手の持っているものは自分によこせ、
なんて主張する人間がもし存在したら、
そんな人間は早晩、社会からつまはじきにされてしまうでしょう。
自分の体は自分のもの。自分のお金は自分のもの。
ということについても、
同じような視点で考えることができます。
ここに、とても価値のある体をもっていて、
自分でもその体の価値を認識しており、
自分の体は自分のものだ、と考えているひとがいるとします。
そこにもう1人、とても価値のあるお金をもっていて、
自分でもそのお金の価値を認識しており、
自分のお金は自分のものだ、と考えているひとがいるとします。
その2人が出会ったときに、
お金を持っているほうが、体を持っているほうに対して、
俺のお金は俺のものだけど、おまえの体は俺によこせ。
なんてもし言ったら、
とてもおかしなことではないでしょうか?
反対に、
体を持っているほうが、お金を持っているほうに対して、
わたしの体はわたしのものだけど、あなたのお金はわたしによこせ。
なんてもし言ったら、
それもやっぱり、とてもおかしなことでしょう。
この世界は、商品取引や物々交換といった場面にとどまらず、
基本的には、譲り合いで成立しています。
譲り合いというのは、
どちらかいっぽうだけが相手に一方的に譲るだけ、ということではなく、
譲るというのが「おたがいに」なされている、
ということで成立しています。
考えてみれば、当然のことですよね。
自分は相手に対してびた一文譲りはしないのに、
相手に対しては自分に対して譲ることを要求する、
なんてことをしていたら、
社会はめちゃくちゃになってしまいます。
だからこそ。
自分の体は自分のものだ、というのは、とても大切な主張なのですが、
それをただ、自分だけが一方的に主張するだけでは、
相手もまた、自分のお金は自分のものだ、と考えて、
お金をいっさい譲ろうとはしなくなるかもしれません。
この世界には、自分もいれば、相手もいます。
自分と相手の両者が併存、並立しているのが、この世界なんです。
なので、自分だけが一方的に得をして、相手に損をかぶせるような、
そんな契約、取引、関係を志向するならば、
やがては、損をすることになる相手方がそんな契約、取引、関係には
参入してこなくなり、