ザワザワを侮るなかれ
派遣で働き始めてから三ヶ月経ったある日、佐江照さんは突然、根田見さんから呼ばれました。
「ちょっと・・・・」
わざわざ周りに誰もいないことを確認して、話しかけてきたのです。
「部長さんか、もしくは次長から、人事の件、何か聞いてる?」
「いえ、なにも」
「そう?あなたの就職の件なんだけど」
「少し前、次長に『本当に就職したいの?』と改めて聞かれたので、『ぜひお願いします』とお答えしましたけど」
「それ、いつの話?」
「一週間くらい前ですけど」
「そう・・・・」
その瞬間、根田見さんはなぜかひどく動揺した様子でした。
「もしかして、根田見さんもわたしの就職を応援してくださってるんですか?ありがとうございます!わたし、就職できるようにもっともっと頑張りますね!」
んなこと、微塵も思っちゃいませんが、佐江照さんは根田見さんの動揺を見逃しません。
おそらく、またなにか根田見さんが良からぬことを企てていたのでしょう。
それが何か思わぬ方向に向かってしまったのか?
具体的にはわかりませんが、ただ胸がザワザワしました。
これを予感と言います。
こんな時、人は、
「いや、わたしのただの思い過ごしだ・・・」
そう自分に言い聞かせて無理に安心しようとしますが、胸のザワザワを侮ってはいけません。
ザワザワはあなたにしっかり危険信号を送ってくれているのです。
ザワザワは頭で理解するのではなく、心で感じるものです。
「就職できなかったらバイトすれば?」
さて、話を一週間前の次長と話をした頃に戻します。
「本当に就職したいの?」
と、聞かれた件です。
根田見さんには詳しく話しませんでしたが、次長との間には次のようなやり取りがあったのです。
「もちろんあります。よろしくお願いします」
そう答えると、次長は、
「まあ、僕が部長に言えばなんとかなるとは思うんだけど〜」
「はい。よろしくお願いします」
「でも、社員になれない可能性もあるから、あまり期待しないほうがいいよ」
そう言うのです。佐江照さんは次長が何を言いたいのかわからず、
「あの・・・、それはどうしてでしょうか?」
そう尋ねました。
「一応、社員になれない可能性もあるってことを伝えておこうと思ってさ」
「・・・はい」
ものすごいショックを受けました。
もしかしたら本当に社員になれるかもしれない。期待が確信に近づきつつあったタイミングで言われたのですから。
佐江照さんは、「冷静に・・・冷静に・・・」
心の中で自分に言い聞かせ、言葉を注ぎました。
「・・・・あの、もし社員になれなかった場合、半年の派遣契約が終了してもそのまま派遣で働くことは可能なんですか?」
「それは無理」
「・・・・・・そうなんですか?」
「僕は全然知らなかったんだけど、君が社員になったらうちの会社が派遣会社に100万円を支払わなければいけないらしいんだよ。100万円だよ。高いし、びっくりだよね〜。だから、社員にできないかもしれないんだよね。もし、社員になれないってことになっても派遣の継続も無理じゃないかな〜。君の契約料、やっぱり高すぎるんだって」
「100万円ですか?・・・・・」
「そうらしいよ。根田見さんが言ってたよ。だから、社員になるのも継続も難しいと思うんだよね」
「それ、本当なんですか?」
「根田見さんが言うんだから本当だよ。嘘つく理由ないじゃん」
(「理由はたくさんあります!」)
そう喉まで出かかりましたが、佐江照さんはおさえました。
次長に言ってもなんの解決にもならないことはわかってましたから。
「うちでバイトやれば?募集してればだけど。」
「バイト?・・・・」
「最近のバイト、時給いいって言うよね。佐江照さんだったら今と同じくらいの時給で働けるよ。だって派遣もバイトも時給が同じだったらどっちでも同じでしょう?バイトだったら派遣みたいに更新とかしなくていいし、紹介料も払わなくていいし。どっちも楽じゃん」
「・・・・・・・」
佐江照さんは次長のあまりの無神経な態度に言葉を完全に失ってしまったのです。
根田見さんの策略に次長が見事にハマって、次長も佐江照さんの採用には難色を示しています。
そうなると、頼みの綱は部長さんだけですが、「100万円の紹介料」という話を聞いて、ほとんど絶望的な気持ちになりました。
そこに次長は、
「バイトやればいいじゃん」
と、無神経な言葉を浴びせたのです。
彼は別に意地悪な気持ちで言ったわけではないけれど、
普通に社員にとして働いてきた人には派遣やバイトで生計を立てている人の気持ちが全然わからない。
その典型の発言でした。
それ以来、佐江照さんは落ち込む気持ちを抑え、なんとか平常心を保ちながら仕事を続けていました。
一週間が経ち、ようやく立ち直りかけた時に、冒頭の根田見さんのあの言葉です。
「あなたの就職の件なんだけど」
なぜ、根田見さんはあんなに動揺していたのでしょう?
なぜ、佐江照さんは胸がザワザワざわついたのでしょう?
その答えは翌日にありました。
突然、部長さんに呼ばれて、
「来月1日から正式に社員採用することになりました。よろしくお願いしますね。条件面などについては根田見さんに色々と聞いてください」
突然、佐江照さんの社員採用が決定したのです。
ここまでの話をきちんと整理してお話しすると、実はこういうことだったのです。
佐江照さんを社員に推薦したいと考えているのは部長さんです。
それをなんとか阻止したい根田見さんは佐江照さんの直属の上司にあたる次長に、
「佐江照さんを社員にしたら、派遣会社に紹介料として100万円を支払わなければならないので無理です」
と、ことさら「100万円」を強調しました。それがあたかも法外であるように。
その話を鵜呑みにした次長が佐江照さんにあのような話をした。それでも、もし佐江照さんが社員に採用されたら、自分のおかげなのだと恩を売っておこうと考えた。
次長の思惑はその程度です。
では、根田見さんは、なぜそこまで佐江照さんの入社を阻止したいのか?
理由はわかりません。
部長さんが、佐江照さんを高く評価していることに嫉妬した?
話を聞く限り、理由はそこしかないように思います。
結局、
「100万円の紹介料」が、逆に佐江照さんの入社へのスピードを加速させることになるという、根田見さんにとってはなんとも皮肉な結果になるのですが。
次長は100万円の件を部長さんに話しました。
「佐江照さんを入社させたら派遣会社に100万円の紹介料を払わなくちゃいけないみたいですよ。だから、彼女の採用はできないと思います」
そう報告を受けた部長さんでしたが、
「それが相場というものだよ。うちの社員になることで派遣会社には佐江照さんとの契約料が入ってこなくなるんだから。根田見さんはそれくらいわかっているはずだけどな〜」
そして、部長さんは派遣会社に直接電話をして、佐江照さんの担当者に佐江照さんの人柄などのヒアリングを行い、100万円の紹介料の確認を行い、結果、正式に採用を決めたのです。
そして、部長さんから根田見さんへ採用の話が届き、採用のための書類を準備しておくようにと話があった。
驚いた根田見さんは、慌てて佐江照さんのところに行き、
「次長から人事の件、何か聞いてる?」
このセリフという流れになるのです。
結果、部長さんの裁量で、佐江照さんは晴れて、その会社に入社することが決まりました。
めでたしめでたし。
とは、そう簡単には行きません。
決まったとは言え、根田見さんは、だからと言って黙って入社を待っているような人ではありませんでしたから。
つづく
