桜
「・・・ねえ、桜を観に行こうよ〜」
確か、午前2時くらいだったと思う。
午前2時の無言電話が毎晩続き、10回目か11回目の無言電話のとき、受話器に向かって、
「もうごめん。無理。しんどい。今日を最後にしばらく電話線を切るし、電話番号を変える。だから、もうかけても無駄だよ。今日が最後。じゃあね」
そう語りかけた途端、一呼吸置いて聞こえてきたのがこの言葉だった。
気の抜けた若い女性の声。
虚を突かれた形になったわたしは、
「えっ!?女?誰?」
言葉を詰まらせた。すると、その声は、
「ふふふふ・・・・」
嘘がバレた子供のような小さく笑い声をあげて、
「ねえ、桜。観に行きたいの。連れてって。いいでしょう?」
そう甘えるように囁いたのだ。
「・・・・・・・・」
「ねえ、桜、観に行こうよ〜。だって散っちゃうよー。一緒に行くって行ったじゃん」
「・・・・・誰だよ」
「いつ行く?明日?明日にする?」
「・・・・・誰なんだよお前は?」
「ねえ、桜、連れてって」
「ふざけるな!!!」
わたしは受話器を叩きつけて電話のコードを引き抜いた。
29年前の5月。大学3年の初夏の出来事だった。
当然、葉桜になっていた。
そのイタヅラ電話を初めて受けたのはゴールデンウィーク明けてすぐのことだったと記憶している。
東京高円寺のアパート家賃3万円。6畳一間の風呂なし。
いつものように酔っ払って雑魚寝をしていると電話が鳴った。
目を覚まし、時計を見ると午前2時。
「まさか・・・じいちゃん?」
顔のないコミュニケーション
わたしは、電話にことさらトラウマを抱えていた。
原因は二つある。
一つはその前年の祖母の死だ。
5月に、祖母を病気でなくした。
その前後、わたしは演劇の稽古のために数日部屋を明けたままにしていた。
5日ぶりに帰宅すると留守番電話のアラームがものすごいスピードで点滅している。
テープを巻き戻した。巻き戻しにも数十秒かかる。一体何件入ってるんだ?
ボタンを押すと慌てた様子の母の声だった。
「ばあちゃんが危ないんよ。早く、早く帰っておいで。この電話を聞いたらすぐよ。ピー」
「あんたどこにおるん?留守電聞いたん?聞いたならすぐに戻っておいで。間に合わんかもしれんよ。ピー」
「帰ってこれるの?これんの?どこで何しとんの?」
「・・・・ばあちゃん死んだよ。明日お通夜で、明後日、葬式やから。お母さんしばらく家帰れんけんね。これ聞いたら帰っておいで」
「今日、葬式終わったよ。みんなで送り出したよ。来んかったんはあんただけよ。あんたは本当に・・・。夏休みにゆっくり帰ってきたらええよ」
結局、わたしは祖母の葬儀にも出なかった。
祖母の死後、祖父がめっきり弱ってしまった。
「わしも早う婆さんのところに行きたいの〜」
お酒に酔うと口癖のように呟いていた。
だから、東京で暮らしつつ、いつも祖父のことを気にかけていた。以来、母からの電話があるたびに、ドキッとするようになってしまったのだ。
祖父はその1年後、亡くなった。突然死だった。その直後、母からの電話には出られたが、祖父の最期を看取ることはできなかった。
イタ電
わたしが深夜の電話を恐れる理由がもう一つある。
それはもっと昔にさかのぼる。小学校5年生の時だから40年近く前。
自宅の電話は黒いダイヤル式の電話だった。留守電機能も何もない。呼び出し音はジリリリリーッ!!ジリリリリーッ!!と、けたたましいやつ。
午前0時ちょうど。その電話が初めて鳴った。僕は神経質な子供だったのでその音ですぐに布団から飛び起きた。自分の部屋を飛び出して居間に行くと、母がすでに受話器を握って、
「あなた誰?誰なんですか?」
そう小声で叫んでいた。
母は受話器を置いて、
「誰?おとっつぁんじゃなかったの?」
そう尋ねるわたしに、
「なんかいたずら電話みたい。何も言わんの。気持ち悪いね〜」
最初は笑っていた母だったが、それが1週間おき、2、3日おきにかかってくるようになり、毎日かかってくるようになった。
必ず無言電話で、こちらが切らない限り、向こうから切ることはない。
当時、父はドイツに数ヶ月間の長期出張していたので家の中は母とわたしと中学1年の兄だけだった。
兄はがり勉タイプの優等生で基本的にこういうことには無頓着だったので、ほとんど興味を示さない。気にもしない。電話がなっても自分の部屋から出てくることはない。
母は電話を恐れてどんどん憔悴して、兄に、
「今度、お兄ちゃんが電話とってみて」
そう頼んでも、兄は勉強以外にほとんど興味がないので、
「別に気にせんかったらいいんやない。電話も取らんでいいよ。ほっとけば」
そう言って意に介さない。だから、
「わかった。今度かかってきたら俺がとる。二度とかけてくんなって俺が言う」
わたしも怖かったが、母のためにそう宣言したのだった。
しかし、宣言してからと言うもの、なぜか2週間くらいかかってこなくなった。
「もうかけてこんのやないかね〜」
そう母も安心した5年生のクリスマスイブの夜。
この日は、映画「スティング」がテレビ初放映される日ということで、わたしは朝からものすごく楽しみにしていたのだ。当時の私はポール・ニューマンの大ファンで、彼の伝記本や写真集やポスターを集めていた。
その夜、映画「スティング」は本当に面白くて、わたしを夢中にさせた。
そして、午後10時半ごろ。映画も佳境に入ったそのタイミングで、ジリリリリーッ!突如電話はなった。
きたっ!
確信はあったが、わたしはテレビから離れたくなかった。
後ろ髪を引かれるような表情をわたしに向けながら電話に向かう母。
わかっているのに、映画に夢中で気づかないふりをするわたし。心臓がバクバク鳴っていた。
受話器を耳に当て、黙ったままの母。聞き耳をたてるわたし。
「何ですか?こんな日にどういうおつもりなんですか?」
その言葉が聞こえてきた瞬間に、わたしは立ち上がり母から受話器を奪い取った。
「誰だお前は!?なんでこんなことするんか!嫌がらせはやめろ!」
そう叫んでいた。
「・・・・息子さん?」
「えっ?」
「息子さんなの?」
きれいな若い女性の声だった。無音のはずの受話器から声が漏れたことにわたしは動転したが、
「お前は誰なんか!」
勢いをつけて怒鳴った。
「ふっ」
小さく笑う声。
「何がおかしいんか!?おまえのせいで家の中は無茶苦茶なんぞ!もうかけてくんな!」
「そうよね。ごめんね。もうかけないね」
「・・・・」
「本当にごめんなさい。お母さんにも謝っといてくれる?本当にごめんなさい。さようなら」
電話が切れた。そして、母に、
「女の人やった。お母さんにごめんなさいって」
そう言うと、
「・・・・そう。ひろし、ありがとう」
なぜか母はとてもとても悲しい顔をしたのだった。
