私の蒸気機関車史(その1) | 海水浴特急【全国保存蒸気機関車めぐり】

海水浴特急【全国保存蒸気機関車めぐり】

全国各地470余りの保存蒸気機関車を訪ねています。現在の訪問数450機です。

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10日間ほどblogも冬休みを頂いておりましたが、春の保存蒸気機関車めぐりの予定も迫ってきたので今回は私が鉄道・蒸気機関車好きとなったきっかけをご紹介します。こんな機会はなかなかないので、これは私自身の振り返り記録でもあります。


私は1960(昭和35)年に都内で生まれました。出生後すぐは、南武線沿線の武蔵中原に住んでいたそうです。自分の記憶は全くないのですが、家が南武線の線路に近かったらしく、私が喜ぶので母親がしょちゅう電車を見に連れて行っていたそうです。おそらく私が鉄道好きとなった最初のきっかけはここだと思われます。幼少時の男子に、うかつに電車を見せてはいけないという事例ですね。

その後3才くらいの時に、現在も住んでいる京急富岡(当時は京浜富岡)に越して来ました。この頃にはすでに完全な鉄ちゃんになっていて、いきなり自宅からいなくなって親が警察に捜索願いを出したら、なんと品川駅で発見されたということがあります。勝手に富岡駅まで電車を見に行き、そのまま大人の後ろをついて電車に乗り品川まで行ったようです。当然ながらの大騒ぎ、パトカーで自宅に連れられてきた時は猛烈に怒られ物置に閉じ込められたそうです。こちらも本人の記憶は全くありませんが、とんでもないクソガキであったことだけは間違いありません。

地元の幼稚園・小学校と進学しましたが、父親の転勤で小学校1年後半(1967年)~3年前半(1969)の間、山口県下関市吉見に転勤しました。東板橋村くんのblogにもありましたが、私の世代は首都圏在住であればおそらく現役時代の蒸気旅客列車に乗る機会はなかったはずです。この引越しのおかげで私は山陰本線の蒸気機関車に出会うことができ、貴重な体験を得ることができました。一番上の写真は当時の吉見駅、嬉しそうに馬鹿面しているのが私です(笑)写真に写っているD51372は製造後小郡機関区に配属された後、生涯中国・山陰で働いたカマです。1971年に廃車となり、残念ながら解体されています。この下関時代が私が蒸気機関車好きとなったきっかけなのは間違いありません。通っていた吉見小学校は山陰本線のすぐ脇で、一日に何本も走るD51牽引列車を教室からながめていました。

横浜に戻った私は、高島線も1970(昭和45)年電化され残念なことにもう蒸気機関車を見ることはできなくなりました。しかしあるきっかけで近くに蒸気機関車があることを知りました。それが当時国府津機関区跡に保管されていたD5272です。御殿場線もすでに1968(昭和43)年に蒸気機関車は引退していましたが、なぜか国府津機関区の扇形車庫と、その中にぽつんとD5272だけが保管されていたのです。私はまだ小学生でしたが、このD5272を見に何度か一人で国府津を訪ねていました。父親からもらったフジペットというバカチョンカメラを持って、この頃から撮り鉄が始まりました。私が始めて鉄道写真を撮影したこのD5272の白黒の写真は1970(小学4年)~1972年(小学6年)頃かと思います。間近で見たD5272は下関で見ていたD51より大きく、すごい迫力であったことを覚えています。扇形機関庫も、すでに転車台やレールは撤去されていましたが、蒸気機関車の痕跡を感じるには十分でした。その後のカラー写真には裏に訪問日が「昭和49(1974)年5月3日」と書いてありました。当時は中学2年でしたが、2~3年ほどの間にナンバープレートや尾灯が盗難に遭い、前照灯も割られていて痛々しかったです。D5272はその後1980(昭和55)年に御殿場市湯沢平公園に移転・保存されました。貴重な扇形機関庫残念ながら解体されてしまいました。D5272は2010年に御殿場駅前に移転され、現在もその勇姿を見ることができます。

下関時代の山陰本線のD51、そして地元で出会うことのできたD5272により私の蒸気機関車好きは始まったのです。以上が現在私が鉄道そして蒸気機関車好きになったルーツのお話でした。