1945年8月15日は
日本の敗戦日です。
昭和天皇による終戦の詔書が
玉音放送としてラジオで流れ
国民全員が敗戦を自覚した日です。
戦勝国のアメリカからすれば
終戦記念日としてお祝いするのかもしれませんが
この言葉を日本人が使うのは
我々子孫のために命を賭して戦った英霊に対して
失礼な気がします。
アメリカが
日本がポツダム宣言を受諾し
降伏文書に署名した9月2日を
Victory over Japan day(対日戦勝記念日)
と呼んで祝うのは勝手ですが
我が国が記念日と呼ぶのは不適切な気がします。
1944年六月、マリアナ諸島、サイパンの線を絶対国防圏として
戦った日本軍は敗退し
硫黄島での戦いが始まったとき
すでに日本には継戦能力はありませんでした。
他の島嶼防衛戦闘では、補給も無く、兵力も十分でなかっった日本
バンザイ突撃で玉砕するパターンがほとんどでした。
フィリピンを征圧した米軍は、
日本本土を空爆するための飛行場
損傷したB29の不時着飛行場として、硫黄島の占拠を目指します
日本側としては、硫黄島が占領されると、
日本本土への空爆が強化されるため
絶対に守り通す必要がありました。
このような戦況を背景に
1944年六月 硫黄島防衛の指揮官として
栗林中将が着任します。
栗林中将は、勝てない戦いであることを承知していましたが
潔く玉砕するより
一日でも長く米軍を硫黄島に釘付けし
米軍に損害を与え続けることを目標としました。
1945年2月19日に戦闘が開始されます。
当初、数日で征圧できると予想していた米軍は
一ヶ月以上(3月17日)もの激闘の末に
ようやく硫黄島を占拠しましたが
日本軍の死傷者数(約二万人)を超えた
二万八千名もの死傷者を出しています。
(日本軍はほぼ戦死、米軍の死者は約七千名)
栗林中将の長期戦を考えた作戦は
全島にトンネルを築いて
地下要塞を建設することでした。
兵士たちは
高温(夏場で外気温は40℃近く、地下は50℃)の中
硫黄ガスの噴出する地下を手作業で掘り進め、
総延長十八キロに及ぶ洞窟陣地を建設しました。
この地下要塞のおかげで
米軍が上陸前に放った二万トンもの砲弾も
日本軍を傷つけることは出来ず
すでに生存者すらいないと安心しきっていた米軍は
1945年2月19日の朝、
水陸両用装甲車と上陸用舟艇合わせて750隻で押し寄せましたが
ほぼ無傷だった日本軍の激しい攻撃を受けて
海岸で2,400名もの戦死者を出しました。
しかし
戦闘に至るまでの準備は
とても過酷なものでした。
穴を掘るシャベルやツルハシなどなく
50℃近い灼熱の中
手作業で掘ることを想像すると
涙が止まりません。
火山である硫黄島の地下では
防毒マスクを着用しながらの作業であるため
連続した作業は5分間程度しか続けられなかったようです。
しかも、灼熱の中
飲用となる清水は雨水しかなく、
塩辛く硫黄臭のする井戸水で
激しい下痢に悩まされた兵士たちが大勢いたようです。
どうせ生きて祖国の地を
再び踏むことのない戦闘であれば
バンザイ突撃のほうが
楽に死ねたかもしれません。
しかし
栗林中将は
君たちが一日長く戦えば
本国の日本人がその分長生きできる。
というような主旨の訓示を述べ
バンザイ突撃を禁止したようです。
3月17日16時過ぎ、栗林中将は大本営へ訣別電報と共に以下の
・国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
・仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ
・醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ
栗林中将のこの戦いで
米軍は
日本の本土上陸における死傷者を推計し
リスクが高すぎるため
本土上陸をあきらめたようです。
毎年、この時期になると
英霊の方々への
感謝と尊崇の念が湧いてきます。
今の日本は
猛暑の中でも
好きなだけ水が飲めます。
その有難さをしみじみと感じています。
今の自分があるのは
勇気あるあなた方のおかげです。
本当にありがとうございます。
早く天上界に還られることを祈りつつ