イエス様の幸福論についての考察です。
聖書からの推察です。
聖書に記述されているイエス様の言行録から
イエス様は自分自身の幸福を
一切考えていなかったことが読み取れます。
衆生の迷いや苦しみを癒す
神の子としての使命を果たすことのみを考えて
行動していたのだと思います。
自分の幸福を考えていない方が
死後、
天なる父の傍らに還り
玉座に鎮座されるという
最大の幸福を得るという
逆説が生じるという事実を
我々に教えているのだと思います。
イエス様の教えは
汝の主なる神を愛し
汝の隣人を愛すること
にすべて言い尽くされていると思います。
神を愛するとは
神に対する揺ぎ無き絶対の信仰を持つことを意味しています。
言葉で理解できても
これを実行できる人はほとんどいないでしょう。
1000年前の旧約聖書の予言(イザヤ書)を成就するため
十字架にかかるのが分かって
エルサレムに入城できる人は皆無に近いと思います。
神に対する「従順さ」を貫き通した精神力は
ある意味で
武士道を体現した鋼の精神をお持ちだったのだと思います。
そして
十字架で亡くなる寸前
父よ、彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。
と衆生の犯している罪に対して
天なる神に許しを求めています。
救世主を死刑にする
最大の罪を犯している衆生(隣人)
に対して
愛の心を最後まで持ち続けることができる
イエス様の限りない優しさに
只々、涙が流れるばかりです。
しかし
この大宇宙を貫く「因果の理法」を
晦ますことはできません。
その後のイスラエルの民が
経験する歴史が
それを物語っています。
イエス様の
エルサレム入城から十字架までの
言動を見る限り
人類の罪を贖うために十字架にかかったとする
贖罪思想が間違いであることがわかると思います。
この思想は
後年、弟子たちが
自分たちの信仰の弱さや伝道の失敗を
隠ぺいするために創られた思想です。
本来は、
イスラエルのラビたちも
救世主であるイエス様に帰依して
その教えを信じて、学び、伝道することを
天上界も望まれていたと思います。
歴史に IF はありませんが
そのように状況が変化していれば
その後、キリスト教徒たちが
300年にも渡って
ライオンに食われたりする迫害は
受けなかったと思います。
弟子たちも
ゲッセマネの園でイエス様が
最後の祈りを捧げているときに
眠てしまったり
十字架にかかっているイエス様を
ペテロは知らないと言うなど
信仰心の弱さを露呈しています。
イエス様の復活がなければ
キリスト教が
現在、20億人の信徒を擁することはなかったはずです。
イエス様の幸福論は
逆説的になりますが
この世の栄光を一切求めず
自分の幸福を一切考えず
神への従順な信仰を持ち続け
衆生への愛を惜しまず与える人が
天上界に帰天した時に
最大の幸福を得るという
救世主の幸福論を教えてくれているように思います。
これは、
万人が実践できる幸福論としては
かなり厳しいものであると思いますが
北極星の如く
人類史に煌めき続けている幸福論だと思います。
信仰の試しは何度も来ると思います。
嫌いな人との出会いも避けられません。
その時に
イエス様の幸福論を思い出して
信仰を手放すことなく
少しでも優しい気持ちを持てるように
努力していきたいと考えています。
皆様の参考になれば幸いです。