太平洋戦争中の末期

1944年9月から11月にかけ

パラオ共和国のペリリュー島で行われた

日本軍守備隊とアメリカ軍の陸上戦闘(ペリリューの戦い)があります。

日本軍(連隊長:中川州男大佐)
総員 10,500名
アメリカ軍
総員 48,740名

15世紀以降、
ヨーロッパ人たちがパラオにやってくると
力による支配が始まり
4万人以上いたパラオ人は、
5000人まで減少し
約9割の人が死に絶えたようです。

 

スペインはイギリスとの植民地争奪戦に勝利し

勝手にパラオを領土にして
1885年から植民地支配していましたが

アメリカとの戦争で疲弊したため

パラオをドイツに売ってしまいます。
ドイツ時代も、

スペイン時代と同様、愚民政策がとられ
水道や道路などのインフラ整備をはじめ
病院や学校が整備されることはありませんでした。

 

1920年
国際連盟は、

パラオの委任統治を日本に任せ
日本は

パラオ人を奴隷のように扱うことはせず

真心を尽くしてパラオ発展のために尽くしました。

国家予算を捻出し、国家の威信をかけて、

パラオを復興させました。

日本人は自ら現場に出て、仕事を見せ、共に働きました。
このようなことをパラオの人々は見たことがありませんでした。
日本人の真面目さと

パラオ発展のために尽くす姿に

純朴なパラオの人々は心を開き

信頼関係が築かれるようになっていきました。

 

そして

米軍の太平洋艦隊がパラオ攻略を目指して進軍する中

戦況が日本に不利となった状況で

ペリリュー島の島民たちは集会を開き

日本人と一緒に戦うことを決め

中川州男隊長に「一緒に戦わせて欲しい」と

進言します。

 

中川隊長は

真剣に訴える彼らを見つめ

しばし沈黙の後に

大声で

「誇り高き帝国軍人が貴様ら土人などと戦えるか!」

と激昂されます。

 

それまで自分たちを対等に扱ってくれたと信じていた島民の人々は

土人と言われ

日本人に裏切られたという思いで

悲しくて、悔しくて、泣き続けたそうです。

見せ掛けの友情だったのかと失意の中

島を離れる船に乗り込んだ。

船が島を離れた瞬間、

中川隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきました。

 

その時

船上の島民たちは

隊長が激昂したのは

自分達を救うためだったということが

分かったと述懐しています。

事実

日本軍が戦闘前に強制退避させたため

ペリリュー島の島民は

死者・負傷者ともに0名です。

 

パラオは戦後

独立すると

日の丸をもとに国旗を作り

日本と同じだと失礼と思い

ちょっと左にずらしています。

パラオの国旗

日本からの援助で購入された連絡船に、「YAMATO」と命名したり

ペリリュー島に桜は咲きませんが

日本をイメージする「サクラ」という言葉には

今でも人気があるようです。

 

このような事実が

広く知られることはないと思いますが

語り継がれていくべきものと考えています。