両リーグ1位同士の対戦となった、プロ野球の日本シリーズは、10月29日(土)に広島市のマツダスタジアムで第6戦が行われた。

王手をかけていた北海道日本ハムファイターズが、広島東洋カープに10-4で快勝し、2連敗からの4連勝で、10年ぶり3度目(東映時代含む)の日本一に輝いた。

本音を言えば、好勝負が続いた頂上決戦だからこそ、好投手の投げ合いが想定された第7戦まで進んでほしかった。

9月10日(土)に、マジックナンバー「1」で先発した黒田博樹投手は、「改めて25年間は長かった。次は日本シリーズへステップアップしていけるようにしたい」と語った。
昨季、8年ぶりに古巣に復帰したのは、セントラル・リーグ制覇という目標があったからだ。

シーズン勝利数の球団記録を早々と更新し、25年ぶりの頂点へと一気に駆け上がった広島は、野球評論家の張本勲氏が「大あっぱれ」を贈る強さを見せつけた。

横浜出身の谷原章介は、背番号15のユニホーム姿で、勝利投手になったベテランの胴上げを東京ドームで見届けた。
そして、「25という数字は意識してしまう」と、司会を務める番組と数字が重なる偶然に驚きを隠さなかった。


第11回アジア野球連盟(BFA) U-18アジア選手権は、9月4日(日)に決勝戦が行われ、開催国の台湾に1-0で勝利した日本が、6戦全勝を飾り、2大会ぶり5度目の優勝を決めた。

若い侍には、全国の高校球児16万8000人の中から、夏の甲子園で活躍した、次代を担う選手が選ばれた。

第98回全国高校野球選手権大会の決勝戦は、8月21日(日)に甲子園球場で行われ、作新学院(栃木)が北海(南北海道)を7-1で破り、栄冠に輝いた。

7月末に激戦区の神奈川と大阪代表が決まって全出場校が出揃い、8月14日(日)にはその優勝候補同士の直接対決があった。
高校ビッグ3の投手がいる優勝候補でも、決勝前に姿を消すから、高校野球はわからない。

作新学院出身者には、東京六大学野球で活躍し、早大の主将を務める石井一成内野手、記憶に新しいところでは、リオデジャネイロ五輪の選手団で第1号の金メダルを獲得した、萩野公介選手がいる。

「本当におめでとうございます。まずは、ゆっくり休んでください」と、母校にコメントを寄せた萩野選手は、リオから帰国して2日後に練習を始めていた。

男子400メートル個人メドレーを制するなど三つのメダルを獲得しても、9月2日(金)の競泳の日本学生選手権に向けて早くも動き出していたのだ。

その結果、男子200メートル個人メドレーでは、前回覇者でライバルの瀬戸大也選手を破って、2年ぶり3度目の優勝を果たした。

小針崇宏監督も作新OBで、甲子園でプレーしたが、全国制覇の夢は叶わなかった。

54年ぶり2度目の優勝ということは、怪物・江川卓投手を擁した時には、作新は頂点に立っていないのである。
「たかされ」の意味が胸を突く。

私は、小学生の頃から横浜に住んでいる。
ただ、私の生まれた場所は宇都宮なのだ。

今夏、栄光を手にした作新学院は、栃木県の県庁所在地にある強豪校。
だから、神奈川県勢と栃木県勢には、いつも頑張りを期待する。

今春、第88回選抜高等学校野球大会では、その2校の出場がなく、残念な気持ちであった。

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横浜DeNAベイスターズの本拠地最寄りのJR関内駅は、神奈川の高校球児を応援している。

松坂大輔投手を擁する横浜高校が優勝した時は、病院のベッドの上で希望の道が見えた。

私にとってあの夏とは、延長17回の死闘があった1998年を指す。
その準々決勝の相手は、PL学園(大阪)だった。

プロ注目の今井達也投手は、序盤に先制点を許すも、緩急を生かした投球で、ベストの舞台で好投した。
宇都宮市出身の監督は、松坂より後の世代でまだ若い。

日本ハムナインが北海道へ凱旋した10月30日(日)には、宇都宮清原球場で、第69回秋季関東地区高校野球大会の決勝戦が行われていた。

エースが変わった作新学院(栃木1位)が、東海大市原望洋(千葉1位)を5-1で下し、38年ぶり5回目の優勝を飾った。

明治神宮大会は残念だったが、来春も「攻めの作新」で、黄金時代を築いてほしいと思う。


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台風が近づく中でも、最終日(8月22日)なので、「オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展」へ行った。

歓喜に酔いしれた前日から、国立新美術館での鑑賞中に栃木関連の文字が心に引っかかる。

《イギリス種の梨の木》(1873年頃)は、モチーフの自然に、風景画の大先輩で、敬愛するコローの影響が感じられる、印象派初期の作品。

《シャトゥーの鉄道橋 あるいはバラ色のマロニエ》(1881年)では、工業化の象徴である鉄道橋が、画面全体のバランスに配慮して、控え目に描かれている。

光溢れる2枚の風景画は、いずれもオルセー美術館のコレクションで、ルノワールがその景色の美しさを心に強く感じ、戸外で制作した絵画と言える。

人物画家と呼ばれたルノワールは、風景画に於いても現代性を表現していたのだ。


今夏は、特にPL学園が栄えていた時代を思い出した。

覚醒剤取締法違反容疑で、2月に清原和博が現行犯逮捕された。

その事件の一報が届いた時、さほど驚きはなかった。
薬物中毒であることは見当がついたからだ。
ただ、以前から黒い噂が立っていたとは言え、容疑者や被告が付くと、一抹の寂しさを覚えた。

人気スポーツ選手は、孤独が不安だったのか。

厳しい内角攻めの結果、増えたデッドボール。
危険なボールをはね返した男が、薬の誘惑には無力だったとは。
強靭な肉体のバッターも、手を出したら最後。

一部報道によると、引退後に覚せい剤を使った影響で、容体が急変し、二度も病院に救急搬送されたようだ。

ユニホームを脱いだ2008年以降、芸能活動をしていた時には、正常な状態ではなかったことがわかるが、テレビ番組での露出は止まらなかった。

それが一転して、2014年3月発売の「週刊文春」で薬物疑惑が報じられてからは、メディア出演が激減したが、周りの人たちは危険なサインを察知できなかったのか。

昨年のスペシャル番組では、堂々と覚せい剤使用疑惑が追及された。
そこでの清原の嘘に、司会のダウンタウンはだまされたと感じ、怒りを隠さなかった。

覚醒剤で得られる快感の記憶は、一生消えずに残ってしまうようだ。
だから、死にかけても手を出してしまうのであろう。
見逃せばボール球でも。

目立たない地方を購入ルートに選んだのは、依存が相当進んでいたからだろう、と警視庁元刑事で作家の北芝健氏は分析した。

鹿児島県の寺の法主は、身元引受人は否定したものの、「護摩行は悪い物が出る。大量の汗をかくので覚醒剤を抜くにはいい」と、1999年以来の精神修行による更生への道を説いた。

しかし、薬物依存から抜け出すには、かなりの努力が必要で、可能なのは回復のみ。

日本ダルクの近藤恒夫氏は、自身も薬物依存者で治療を受けながら、「最初の1発」が今でも脳裏を去来する、と薬の恐怖を強調した。

「今日1日やめる」と誓うことが、現実的な目標なのである。

薬物依存のリハビリを目指す団体で代表を務める近藤氏は、「球界の雄とか『番長』とかは捨てないとだめ。そんなに強くないと、彼が認めないとどうしようもない」と、回復に向けたアドバイスをした。

薬物常習者が立ち直るには、今までのライフスタイルを変え、更生施設で規則正しい生活を送るのが良いとされる。

希望の光となる、社会復帰への道は険しく、清原にとって深刻な打撃となりそうだ。
応援してくれる人の信頼を裏切ったことは確かだが、リハビリをサポートしてくれる人たちがいると私は信じている。


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槇原敬之のアルバム『LIFE IN DOWNTOWN』(2006年)の収録曲に、何かを感じずにはいられない。

祈りを捧げ、救いの手を差し伸べる人が、何処かにいる。

大阪・PL学園高1年時でも、清原は4番で力を発揮し、夏の甲子園の優勝に大きく貢献した。

プロに入ってから無冠の帝王でも、輝かしい道筋をつけた現役時代であり、大胆な賭けに出る必要もなかった。

人生がめちゃくちゃになると分かっていても、興味本位は絶えることはない。
有名人の逮捕が続き、もはや対岸の火事とは言えなくなってきた。

田原成貴が逮捕された時に、牧太郎氏がスポーツ新聞の一面で嘆いた言葉が忘れられない。

「テイオーが泣いてるぞ」

1993年の有馬記念で、トウカイテイオーに騎乗した名手のことである。
1年振りのレースで、奇跡の復活を遂げた愛馬に対し、人目を憚らず男泣きした。

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3強対決に沸いた1997年の天皇賞・春は、前哨戦の阪神大賞典で追い込む競馬を身につけた、グランプリホースのマヤノトップガンが、大外から一気に差し切った。

大レコードの長距離戦を制した手綱さばきを見れば、いかに天才ジョッキーだったかがわかる。

元プロ野球選手の逮捕に触れ、戦後初の三冠王で名監督の野村克也氏は、「清原は天才だが、考えられないバカ」と断じた。

しかし、突き放したような言葉であっても、野球に繋がりのある人たちは、清原和博にエールを送っているように思えるのだ。


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JICA横浜 海外移住資料館に入ると、清水一二の写真展があった。

IPC(国際パラリンピック委員会)公認カメラマンは、障害者スポーツの普及に努めている。

そこには、ベテラン土田和歌子選手の写真があった。
パラリンピックの第一人者は、女子車いすマラソンの金メダルが悲願で、41歳でリオ大会に挑戦した。

競技は最終日の9月18日(日)に行われ、トップとわずか1秒差の4位で大会を終えた。
目標は果たせなかったが、最後の気力を振り絞った結果だ。

常設展では、日本人の海外移住の歴史を年代順に見ていくことにより、ブラジルとの関係の深さに気づく。

スタンプ設置場所近くには、「野球グローブ」と「野球ユニフォーム」が展示されていた。

ジュン・ヒラマ少年が実際に使用したもので、前者にはマジックで苗字が書いてあった。
後者は白地で、胸部には青と黄色の派手な組み合わせで、「ON-DRIN」の文字が入っていた。

キャプションにパラナ州ロンドリーナと書いてあったものの、これでどこのチームに所属していたかが確認できた。
後で分かったことだが、甲子園球場のある兵庫県西宮市は、ブラジル・ロンドリーナ市と友好都市提携を結んでいる。

1989年に16歳だから、今年43歳のヒラマ氏には、野球を欠いたリオ五輪はどのように映っただろうか。

サッカー男子の金メダルは、サッカー王国の長年の悲願であり、リオの成功を疑う余地のないものにした。

日系人の多いブラジルで、球技に於いて、人気に歴然とした差があるのは意外でもあり、まだ野球が世界では受け入れられず、メジャーなスポーツではないことがわかる。

館内では、企画展に合わせ、9月25日(日)までミニ資料館が設けられていた。
夏休みのイベントのタイトルは、「子どもアドベンチャー2016 横浜まるごと冒険隊!~いろんなお仕事・人との出会い~」。

横浜市教育委員会が主催するイベントに応募した小学生が、8月18日(木)に資料館に集まり、3時間以上かけて一つのコーナーを作り上げた。
作業風景を紹介する多くの写真で、5人の子供たちの奮闘ぶりが想像できる。

「資料カード作成」は、本を見ながら折り紙を折る光景。
「解説文作成」は、学芸員に聞き取り。
「写真撮影」では、照明があり、Nikonの一眼レフカメラを使用した本格的な作業。
「パネル制作」は、半田知雄の絵の前で作業。

今年没後20年の半田は、ブラジル日本移民史の理解を深めていく上で、重要な移民画家である。

サンパウロ美術研究会(略称聖美会)は、日系画家の活動範囲を広め、世界への飛躍が期待される画家を生み出した。

聖美会を創設した半田は、11歳で故郷の栃木県を離れたものの、長きにわたってブラジル美術界で活躍し、「パラナ松」などの生まれた土地への思いが感じられる作品も残した。

昨年、海外移住資料館では、日ブラジル外交関係樹立120周年記念特別展示「半田知雄の世界」と、終戦70年企画展示「海を超えたヒロシマ・ナガサキ」があった。
もっと早くに気づけばよかった。

「展示作業風景」は、手袋をして、ガラスケースの中に作品を慎重に置く。
「発表会」は、緊張しているのか、硬そうな表情も見られるが、みんなの前で成果の発表。
イベントが終わると、子どもたちは晴々とした表情になったようだ。

展示品で私が気になったのは「七夕飾り」。
小6の女子の解説文によると、「サンパウロ仙台七夕祭り」用に、宮城県人会の婦人会の人たちが作ったものだ。

作成されたキャプションは手書きで、すぐに違いに気づく。

トレーニングセンターがあるサンパウロ市は、自国開催の大会での躍進に一役買った都市だ。

小さい作品でも、遠く離れたブラジルで使われていると考えると、季節感のある日本の伝統的な習俗が、忘れられていない嬉しさがある。

旧暦の七夕は、今年は8月9日にあたり、ブラジルで天の川を見上げた日系人の中に、短冊に平和への思いを込めた人も少なからずいただろう。


横浜DeNAベイスターズの三浦大輔投手は、9月20日(火)に今季限りでの現役引退を表明した。

9月19日(月・祝)に球団初のクライマックスシリーズ進出を決めていたが、9月16日(金)の三浦投手の先発登板では、甲子園は縁起のいい場所にはならなかった。
ただ、球界最年長の42歳の右腕は、いつか来る登板に備えていつも調整していた。


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9月21日(水)から9月25日(日)までの期間限定で、横浜スカイビル内のマルイシティ横浜に、アリストトリストショップがオープンした。

そこで、蝶野正洋選手がPRイベントに出席すると予告があった。

米国から日本に上陸したnWoは、プロレス界だけではなく、社会的なムーブメントに発展した。

牽引役となったのが蝶野選手で、ヒールの見方に変革をもたらし、スポーツ界を盛り上げるため、精力的にテレビに出演したり、イベントに参加してきた。

「ガールズ&パンツァー」が示す戦車道は、武道やスポーツのようだ。

その人気アニメの応援大使に就任した蝶野選手は、「大洗町の勇気」を伝えるため奔走している。
被災地を訪問したり、心優しい面がある黒のカリスマは、nWoで他分野の有名人と交流を持ち、人脈を広げた。

「BLACK RUNWAY」のビデオでは、三浦大輔と鈴木尚典を引き連れて、花道を歩くシーンが登場した。
横浜ベイスターズの人気選手2人が、黒サングラスにnWoのTシャツを着て、ノリノリに見えた。

社会現象を起こした蝶野選手は、G1 CLIMAXで無類の勝負強さを発揮し、夏男と呼ばれた。
今は、NHK Eテレ「Let's天才てれびくん」で、“茶の間戦士訓練教官”としても活躍している。


今年の長いお盆休みには、戦争映画を観る機会が多かった。

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そのきっかけは、劇団民藝の「坂道と夏の日」。

世の中を変えていくのは、政治家だけとは限らない。
若手俳優の戦争への思いが、7月下旬の舞台に結実した。

1945年8月9日の長崎で、原子爆弾によって柱時計が止まったのは11時02分。
10時05分から、3人の少女の会話で物語は進む。

少女たちは、また来るであろう明日のことを考えている。
今までと同じように、西瓜を食べられる日常になると信じて。

戦闘シーンはなくても、最後に舞台に残った物体の迫力に、核兵器の脅威を感じずにはいられないだろう。


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東日本大震災との関係が見えた戦争映画に、「ソ連国境  15歳の夏」(松島哲也監督・脚本、2015年)がある。

2012年に、中国・黒竜江省の小さな村の長老・金成義(田中泯)から招待され、福島の中学校の放送部員たちは、ソ連と満州の国境近くを取材することになる。
平原が広がる異国で、旧制新京第一中学校三年生がいた、67年前の夏を想像する。

大陸の最前線に駆り出されたものの、戦争に負け、命からがら新京を目指す少年たち。
だが、道端には他にも置き去りにされた日本人がいた。

被災した現代の若者たちは、同じ15歳の彼らの姿に自分自身を重ね、爆撃の恐怖や劣悪な捕虜収容所の環境に耐えた、歴史的事実を追う。

楽しみがない戦争末期では、夜空の星や蝶に詳しい生徒がいた。

暗雲が漂う中、1人の少年が報国農場で蝶を見つける。
大陸を飛び回っていた珍客を、大事に包むシーンに、私は一時の安寧を感じた。

捕虜収容所では、「故郷」を歌う生徒もいた。

国境をまたいだ蝶は標本にされ、大切に保管されていた。
戦争によって故郷を離れた者には、現代に戻っても、平和の象徴に映っていたのだ。

それを見て、現代の日本の若者は、人生の変転を知ることになる。
長老の人生を左右した記憶とは何か。

招待の意図は何だろうか。
歴史の証言者の口から、驚くべき事実が明らかにされる。

原作は田原和夫氏の同名の本で、実際に中国ロケを敢行した。

温かい心が現代にも生き続け、伝わっていることがわかる作品は、名優・夏八木勲の遺作となり、忘れてはいけない福島の現状も捉えている。


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都知事選挙や、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設で起きた殺傷事件を受け、牧太郎著『新聞記者で死にたい』(1998年、中公新書)を読みたくなった。

働き盛りに倒れた著者は、入院生活でも、自由を求め書くことをやめない。
時折自殺願望が襲っても、社会復帰への励みになったのは、ライバルや同業者から応援があったからだ。

脳卒中後も、色々な付き合いを生かし、好きな仕事に邁進する逞しさ。

テレビドラマ「事件記者」の影響があったとは言え、今はない早稲田大学第一政治経済学部新聞学科を卒業し、父親と同じ道を歩んだ運命が明らかにされる。
家訓に逆らい新聞記者になったのは、偶然ではないだろう。

「サンデー毎日」の編集長になった1989年に、冷静に真実を明らかにしようという強い使命感が、売れ行きを無視した一連の報道を実現させた。

だが、オウム真理教を非合理な新興宗教と決めつけたメッセージは、教団を苛立たせることになり、自身にも大きな危害が及ぶ恐れがあった。

それも、運動の先頭に立ってきた編集長が不慮の病気で後遺症を抱えると、オウム真理教を告発するキャンペーンは中断してしまう。
その間に暴走したオウムは、戦後最大の凶悪事件を起こす。

加えて、編集長の不幸が脱退しようとする若者を脅す材料に使われ、牧氏は怒りを表した。

〈リハビリは必ずしも体が完全に治ることを意味していない。患者のほとんどがリハビリを重ねていれば、いずれは全く元の体に戻るのではないかと期待を抱いているが、残念ながら脳卒中の場合九九パーセントまで治っても、正確な意味での「完治」は不可能といっていいだろう。むしろ、リハビリは「完治」を目ざすのではなく、訓練を通じて人間性の復権を目ざしているのである〉

重度の障害者に認定されて、退院を目指す頃に、田中角栄のことを思い出し、坂本九「上を向いて歩こう」をテーマソングに決めたという。

社会部と政治部の記者を経験して、多彩な人物と関わる中、同じ病気で死んだ元首相は特別な存在であったろう。

反戦を訴え続けた菅原文太と仲の良かった牧氏は、戦後50年記念に先の戦争を検証し、コラムを書いていた。

本書には、著者の前に日本最古の週刊誌の編集長を務めた、あの人気ジャーナリストの名前が目に付いた。


部数で大分差がついてしまったが、「週刊文春」がスクープを連発できるのは、ネタの多さにある。
その数、週に200本にも及ぶ。

7月7日(木)に死去した永六輔の訃報があったころ、東京都知事選では、野党4党の統一候補に鳥越俊太郎氏が急浮上し、告示のタイムリミットが迫っていた。

戦争を語ることができる最後の世代を自覚し、ラジオを愛した永六輔は、会話のプロで、「見上げてごらん夜の星を」などを作詞した。


私が初めて夢中になったスポーツは、野球である。
高校野球関連の本には、江川を連想させるイラストが入っていた記憶がある。

私が小学校時代に愛してやまなかった、漫画「かっとばせ!キヨハラくん」(河合じゅんじ画、小学館)が続いていることを知ったのは、2月の事件後。
影響が波及し、休載が決まった。

私が読んでいた時は、主人公は少年のような姿で無邪気な笑顔を見せていたが、ライバルは悪役を演じていた。

私の場合、古葉竹識氏は広島(1975-85年)ではなく、体を半分だけ出す、大洋(1987-89年)の監督のイメージなのだ。


9月24日(土)は、本来ならホーム最終戦。
三浦大輔最終登板の日になる予定だった。

横浜スタジアムの横浜対巨人戦は前売りで完売となった。
また、この日も雨で、開始時間が30分遅れた。

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私は、横浜人形の家の「鉄腕アトム ロボットと暮らす未来展」へ。

アトムの遊びは野球と知り、親近感が湧く。

日本ハムの大谷翔平投手よりも速い球を投げる、ロボットと野球ができる時代はいつ来るのだろうか。

天馬博士の息子として、2003年4月7日に誕生したロボットは、飛雄と命名された。
のちにアトムとなるスーパーヒーローは、人間以上に優しい感情を持つ。

複製原稿と手塚治虫の直筆原稿が展示されていたので、注意深く読んだ。

「鉄腕アトム 地上最大のロボットの巻」(1964年6月号~1965年1月号『少年』連載)は、火山噴火の危機を乗り越える話だった。

「しまった阿蘇山が噴火するぞっ このままでは大噴火じゃ」と、動揺するお茶の水博士。

このピンチに博士は叫ぶ。
「アトムーっ おまえのちからで噴火をとめるのじゃ!!」
「噴火したら熊本市をはじめまわりの市町村が火の海にみまわれるぞっ」

博士のアドバイス通りに、アトムは噴火しそうな場所へ、大きな岩を積んで山を作ろうとする。

一方、反発して動かなかったプルートウは、ふらつきながらも目的に邁進するアトムの精神に心を動かされ、最後は力を貸し、噴火を止めることに成功する。

私の心に色濃く残った場面は、アトムが地球の危機に立ち向かう勇気を示した。

それなのに、10月8日(土)になると、昨年9月以来の阿蘇山噴火のニュースが飛び込んできた。

阿蘇山の36年ぶりの爆発的噴火は、噴煙の高さが約1万1000メートルまで上がった珍しい事例で、四国でも降灰が確認された。


翌日(9月25日)は久し振りの晴れ間。
どんよりした空模様が続いた後に、真夏日目前の横浜。

オリジナルブランドの店舗が出店する最終日に、スカイビルB2F特設ステージで、クリフエッジとのトークショーが行われた。

蝶野選手は機嫌よく、番長引退試合に応援メッセージを寄せた。

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2005年のGⅠクライマックス優勝戦は、誰もが望んだエンディングになった。

蝶野選手は、5回目の優勝を盟友・橋本真也へ捧げ、新日本プロレスの誇りを示した。

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雨空のない日曜日。

大阪府出身の大関・豪栄道が大相撲秋場所で初優勝を全勝で飾った頃、飛行機が横浜上空を通過した。

夏の延長という天気になった9月25日は、田中角栄首相が中国を訪問した日(1972年)でもある。

日中友好の礎を築いた政治家は、石原慎太郎元都知事から今は天才と評され、強い関心が集まっている。


11月20日(日)には、栃木県知事選と宇都宮市長選が行われ、いずれも現職が4選を決めた。

米国大統領選が実施された11月8日(火)は、運命の日になった。
現状を変えたい気持ちが、奇跡の大逆転劇に繋がったのだろうか。
女性初と異端の不動産王の二択で、核のボタンを握る者が決まった。


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文化の日は、小さな頃から歩いている馬車道へ。

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馬車道まつりのスタンプラリーが終わる頃、川崎競馬場は地方競馬の祭典で大盛り上がり。

観客の目は、メインレースを制した天才ジョッキーに集まった。

9月18日(日)に武豊騎手は、JRAとJRA所属馬での地方・海外を通算して、4000勝に到達した。
前人未到の記録も、スーパースターにはあくまでも通過点なのだろう。

11月3日(木・祝)は、文化を忘れていなかったから、川崎で良い出会いがあった。


11月7日(月)は立冬で、宇都宮で初霜が観測され、秋の気配ががらりと変わったが、平年より5日、昨年より12日遅かった。

10月は体の具合が悪かったが、一番楽しい趣味に身を委ねることで、不調が和らいだ。

私は弱気な性格だが、縁は大事にしたいと思う。
だから、復活してほしい天才ブロガーにも、このメッセージを届けたい。


10月に私は、ブログの記事とコメントを書き込むのをやめよう、と本気で悩んだ。
しかし、ドボルザーク作曲「交響曲第9番 新世界より」を聴いて考えを変えた。

完成予定の延期を重ねてきたが、気持ちを入れ替える意味で、この前編を終わりにする。

理由は、終わりの先にあるものを見たいからだ。

私は、自分らしい生き方をしていこうと思う。

難しい舵取りを迫られても、最後は、自分を信じることが、光ある道を辿れる原動力になるからだ。
この事を教えてくれた、才能ある人に心からありがとうと言いたい。


秋の話題が増えたものの、タイトルは書き始めた頃のままにした。
今は正しい判断かわからなくても、新たな段階に入るために。

大きな月が見えた11月12日(土)は、横浜で素晴らしい音楽を堪能し、明るい笑顔に見送られた。

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その一方で、11月14日(月)は、地球に最接近する時間に、満月の光は暗闇に遮られた。
しかし、スーパームーンの代わりに、遠方から空の贈り物が私に届き、記念すべき日となった。


11月に東京都心で初雪や積雪を観測し、「54年振り」を強調するアナウンサー。

11月24日(木)の珍現象と歳月の重みに、今年の夏のことを思い浮かべた。


強い輝きを放つ人が、私のブログを読んでいたことを最近知り、強い気持ちで突き進めそうだ。

後編は、思い出になる前に、完成させたいと考えている。
その前に、もう一度最初から読んでいただければ幸いだ。